第29話 用途

  陶芸作品には用途がついてまわるパターンが多い。
花器、食器、茶道具、等々。

  その際、使いやすさや目的を重視されるケースが多い。
花器なら花の生けやすさ、食器なら食物をのせた時の事や収納、
口当たり、大きさ、重さ、などなどである。

  確かに自分でも使いやすい食器などは使用頻度が多く
自然に手がのびる。陶芸で作品を作る時は決まってその事を意識はして
作っている。やはり使いやすいのは大事な事だ。

  しかし、本音を言わせていただくと、意識しすぎるのもちょっと・・
という思いだ。

  物事には色々な解釈や理論、考え方があるが、陶芸の場合消去法を
取られるケースが多い。たとえばここに食器があるとしよう。
まず重いのはだめ、重ねられないからだめ、色が派手すぎてだめ、・・・と
どんどん消去してゆくと、しまいには白い無地で軽くて重ねられる食器に
落ち付くような気がしてならない。
それこそ、その手の食器なら100円ショップや業務用食器屋さんで
簡単に手に入れる事ができる。

  それはそれで良いと思う。

  しかし、作家たるものがそれを作る必要があるのか?と考えた場合、
まあ、私個人の考え方としては必要がない!と断言する。

  私は優秀な陶芸家ではない。
よく「お茶碗を作るにはお茶を勉強しなさい。」とか、
「花器を作るならお花を勉強しなさい。」とか
「食器を作るなら料理を勉強しなさい。」とか
「酒器を作るなら酒を飲みなさい。」とか
・・・聞けばもっともらしいけど、よくよく考えると
全然もっともではない。

  もちろん知らないよりは知っている方が良いに決まっているが、
お茶もお花も料理も酒も・・・とそんなに一人の人間が出来るわけ
でもない。売春婦の小説を書くのにいちいち売春婦になっていたり、
政治家の小説を書くのにいちいち選挙に出馬なんてしないだろう。

  どうもこのもっともらしい事をいう人が増えている。
このもっともらしい人に料理を盛らせるとやっぱりもっともらしくて
全然面白くないし、ドハデな器を出そうものなら対処の仕方が
わからないみたいだ。

  昔、私の作ったド派手な器に見事に料理を盛った人がいた。
その人はお茶を習えだのお花を・・などとは口にしない。
肝心なのは最終的にはやはりセンスなのだ。
センスのある人はどんな食器にでもうまく盛るし、どんな花器にでも上
手く生ける。

  用途はその器を使う人が決める事だ。
作家があれやこれや必要以上に用途にこだわり、平均的で模範的で
どこかで見たような没個性的な作品を作る事は私は避けたい。

  ・・・とまたこんな事を書くともっともらしい人から
もっともらしい説教をくらうはめになってしまうのかいな〜!!
やれやれ!

2000年10月25日
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