陶芸家の独り言
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第1話 陶芸家という職業
陶芸家というと一般的には山にこもって作務依を着、
ヒゲをはやして長髪でそして薪を窯の中にバンバンと投げ込んで、
出てきた作品が気に入らなければバシバシ割ってしまう・・・
というイメージが強い。
しかしながら、そんな絵に書いたような作家は居るには居るが...
ヒゲをはやして長髪でそして薪を窯の中にバンバンと投げ込んで、
出てきた作品が気に入らなければバシバシ割ってしまう・・・
というイメージが強い。
しかしながら、そんな絵に書いたような作家は居るには居るが、
ほんの一握りの人で実際大多数の陶芸家は一般の人々となんら変わらず、
普通に生活している人がほとんどだ。
陶芸家という名前はあくまで「自称」である。
別に国家試験に合格しなくてもいい。
会社名は窯に自分の好きな名前を付けて○△□窯とする場合が多い。
だけど、会社みたいに役職名が無い。
ただ○△□窯と言われてもピンとこないので、人々は色々な事で
作家を分類したがるのである。
まずは作品を焼いている地名や種類別・・・
備前焼作家とか九谷焼作家とか萩焼作家など
次にスタイル別・・・
伝統的な作家なのか、前衛的な作家なのか、クラフト的な作家なのか、等々
はたまた、公募展の名前別・・・
日展系の作家とか、女流陶芸作家とか、工芸会系作家、等々
ほかにも色々と分類の方法はあると思うが、個展を開くと
よくこの手の質問が飛んでくる。
私みたいに四日市(万古焼、ばんこやき)で信楽の土を使い、
壷も作ればオブジェも作る。日展にも出品しているけど、
他の公募展にも出品している。ガス窯と電気窯を使い分けていて、
焼〆もやれば絵付けもする作家はどうやって答えれば良いのだろうか?
2000年1月5日
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第1話 陶芸家という職業
2008-11-15T21:38:05+09:00
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第2話 使えない茶碗?
もし、あなたが誰かに叱って欲しい!誰かに説教してもらいたい!と
思う少しマゾな人は抹茶碗を作る事をお勧めする。
万が一、唐九郎と見た目違わない茶碗をがんばって製作したとしても、
十分説教の対象になる事間違いない!高台の無い茶碗なんかを
作ろうものな...
思う少しマゾな人は抹茶碗を作る事をお勧めする。
万が一、唐九郎と見た目違わない茶碗をがんばって製作したとしても、
十分説教の対象になる事間違いない!高台の無い茶碗なんかを
作ろうものなら、快感になるまで叱ってもらえる!
私事ではあるが、個展会場で「お茶をやっている」というご婦人に
「あなたの茶碗は面白いけど茶席では使えない!」と
まるで怒られているみたいに言われた事がある。
「使えない」・・とはどういう意味なのか、
「面白いのならどうして?」
頭の悪い私はすぐに答えを出せずに、もんもんと考え込んでしまった。
まあご婦人の言わんとしている事は、
茶碗としての約束事の事か?
私が無名作家でしかも今までに見たことも無い茶碗だからか?
著名な家元の箱書きがないから?
それとも私の作品が無茶苦茶ひどかったのだろう!
しかし、逆説的に考えてみると茶碗というのはそれらの条件を
クリアしないと茶碗とは呼べないのだろうか?
答えは当然「NO」のはずだ!
私が思うに茶席で使えないお茶碗というのはこの世には存在しない!
ご婦人のご意見を私なりに解釈すると
「あなたの茶碗は面白いんだけど、もし茶席で出したら、
色々とご意見が飛んできて、まるっきり私がお茶碗を知らないなんて
言われるのちょっと勘弁してほしいのよ!」・・ってところだろう。
先日、ある人にぐいのみを見せられ「どうですか?」と
尋ねられた事がある。
「なんか教室の生徒でまだ陶芸に手を染めて日が浅い人の作品かな?」と
思っていたらなんと有名な陶芸作家の方の作品だった!
有名人の作品と聞くと「へ〜」と言ってもう一度見直してみる。
もうお分かりだと思うが、茶碗も同じ事が言える。
はじめにこれは「有名な先生の茶碗です」と言うと皆、
少々茶碗の約束事からはずれていたとしても口をそろえて
「いい仕事してますね〜!」なんて言うはずだ。
しかし
「失礼しました、今のは間違いでウチの亭主が趣味で作ったのでした」
なんて事になったら、使える、使えないなんて、そもそも無いのと
同じ事なのでは?
作品の価値はあくまで自分が好きか嫌いかに尽きると思う。
もちろんブランド名で選ぶのも自由ではあるが!
2000年1月15日
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第2話 使えない茶碗?
2008-11-15T21:36:23+09:00
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第3話 公募展
陶芸を始めてまだ1年も経たない頃、先輩作家とグループ展を
開かせていただく事になった。もちろん案内状のハガキ(DM)も製
作された。作品写真とプロフィール(陶歴)を載せると言うのだ。
当然ながら超新人である私に陶歴なんてあるわけもなく、
なにも書く...
開かせていただく事になった。もちろん案内状のハガキ(DM)も製
作された。作品写真とプロフィール(陶歴)を載せると言うのだ。
当然ながら超新人である私に陶歴なんてあるわけもなく、
なにも書く事がないのである。仕方ないので大学卒(しかも、外国語学部)
と記載した。
だから・・・「なんでもいい、陶歴が欲しい!」
と心の中から当時は思った。
公募展への出品動機は実に不純だった。
陶歴が欲しいのもそうだが、入選するとパンフレット(小雑誌)に
載せてくれる!下手すれば賞金まで入ってくる!!
だから純粋に自分の腕試しとか作品を多くの人に見ていただこう・・・
などとは微塵も思っていなかった。作品なんてどうでもいいのだ、
ただただ入選さえすればそれでよかった。
しかし、現実は厳しかった。チョコチョコと手先で作った作品で、
しかも審査員から票を集めるべく、奇をてらった姿勢では結果は
当然落選だった!
それから、自分の表現したいのは何なのか?
またそれを実現するには、どのような技法を用いるべきなのか?・・・
などと考えだした。やはり始めから全国規模の公募展への出品は
私にとってハードルが高かったので、まずは地方の展覧会から
出品し始めた。
前回とは違い、それなりに作品重視の姿勢で臨んだ結果
(・・と言っても下心が完全に無くなった訳ではないんだが)
地方展ではそれなりの結果が出せるようになってきた。
新聞記事にもなり、賞金も入ってきた!
いつのまにか実力が少しずつではあるがついてきたような気分に
させられた。
女の子にモテたいという下心からエレキギターを始めたのだけど、
気がつくとそれなりに上達していて「もっと上手くなりたい!」とか
「オリジナルの曲を演ってみたい!」という行動パターンと
酷似している事に気がついた。
現在はそれほど陶歴にこだわる事は無くなった。
公募展に出品していなくてもいい作品を作っておられる作家は
たくさんいる。作品の価値は陶歴が立派という事と関係ないからだ。
だからと言って一切公募展に挑戦してない人が公募展の無意味さを
論じるのは、いかがなものかと思う。たかが入選、されど入選。
全国規模の公募展で入選するのは、はっきり言ってかなりキツイですぞ!
2000年1月25日
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第3話 公募展
2008-11-15T21:34:19+09:00
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第4話 失敗作
作陶していると当然失敗作が出てくる。
成形での失敗、乾燥での失敗、焼成での失敗、など
他にも焼成後でも色や形が気に入らなくて失敗作とする場合もある。
問題はその失敗作のその後である。
焼成前ならまた土の状態に戻す事ができるが、焼成後の失敗作の...
成形での失敗、乾燥での失敗、焼成での失敗、など
他にも焼成後でも色や形が気に入らなくて失敗作とする場合もある。
問題はその失敗作のその後である。
焼成前ならまた土の状態に戻す事ができるが、焼成後の失敗作の
処理の仕方にはいつも悩まされる。 冷め割れ(冷却中に入るひび割れ)と
言って、見た目には全然キズは無いのだが水を入れると漏れてくる作品など
は特に困る。
気難しい作家や完璧主義の作家ならその場で叩き割っているのだろうが、
私はまずその場で割ると言う事はしない。どうしてかと問われると理由は
色々あるが、よく陶芸家のイメージとして定着している
派手に、しかもこれ見よがしに割るという行為自体が好きではない
からだろう。
確かに作品は自分の手から作りだすものだが、自分一人の力で出来て
いる訳では決してない!つまり、土を使いガスや電気、薪を使って始めて
作品は出来あがるのである。
エコロジーが叫ばれている現在、特に薪窯に費やされる薪の量なんて
半端じゃないし、焼成によって二酸化炭素を放出しまくっているのだ。
それを自分が気に入らないと言って意図も簡単に割るというのは、
あまりにも無責任な行為だと感じてしまう。
確かに、粉々に割れてしまった作品や大きく裂けてしまった作品に
ついては廃棄処分にするしかないが、ある程度きちんと焼きあがって
いるのに少々のキズがある作品や、色が気に入らない作品はとりあえず
保存しておくようにしている。
しかし、もちろんそれらの作品が個展に並ぶ事は無い。
かと言って、作陶には失敗が付き物なので失敗作はたまる一方だ。
食器に関しては家使いにしている。
だから、我が家は「紺屋の白袴」状態だ。
水が漏れる花器などはドライフラワー用や植木鉢にも変身している。
小銭入れや鉛筆立て、灰皿やゴミ箱にも変身する、
まともな食器や花器は家の中にはひとつも無い!やれやれである!
陶芸作品は後に残る物である。はっきり言って初期の作品などは
回収したいものがいくつもある。しかし、自分の未熟さをもひっくるめての
作品である。失敗作を手元に置いておく事はその場で作品を割る事ほど
簡単ではない。
2000年2月5日
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第4話 失敗作
2008-11-15T21:31:28+09:00
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第5話 通勤時間
私の工房は家から7メートルくらい離れた所にあり、
歩いて6秒走って2秒くらいの所にある。
すなわち通勤時間はゼロと言ってもいい。私の友人達は口をそろえて
「いいな〜」と言う。しかし良い事ばかりでは無いのである。
昔学生の頃、千葉県の柏市に住ん...
歩いて6秒走って2秒くらいの所にある。
すなわち通勤時間はゼロと言ってもいい。私の友人達は口をそろえて
「いいな〜」と言う。しかし良い事ばかりでは無いのである。
昔学生の頃、千葉県の柏市に住んでいてバイトで東京まで
毎朝電車に揺られて通った事がある。朝のラッシュは想像以上で
ウォークマンのスイッチを切り替える事すら至難のワザだった。
バイトの間だけの事だから我慢できたが、忍耐力のない私は
これをずーっと続ける事は不可能だと自覚した。
だから、仕事は通勤ラッシュのない仕事に就こうと思った。
そして現在、確かに通勤時間のない職業に就いているわけだが、
これが良いようで、しかしそれはそれで問題点があるのである。
絵付けの仕事は家の中でやっているが、気がつくと三日間家の外に
出ていないと言う時もある。つまり誰にも会わない訳だから、
服装はだれているし頭はボサボサ、はっきり言ってかっこよくないのである。
おまけに女房とず〜っと一緒である。朝・昼・晩と一緒に食事をしている。
確かに女房と一緒に食事をとれるのは、めちゃくちゃ嬉しい?????が、
やはりそこは人間である。毎日顔を合わせていると喧嘩もする。
外に仕事で出ていれば顔を合わせなくてすむが、ずーっと一緒だと
これが裏目にでる。
かと言って全然外に出ない訳でもないので、たまに電車に乗ったり
なんかするとある種の新鮮な感じを受ける。特に女子高生のスカートの
短さには目のやり場に困ってしまうが、それ以外にも身だしなみを
きちんとした人や良い香水の香りがふわぁ〜とした時などは、
今の自分は「このままでは、いかん!」という気持ちになる。
つまり、通勤時間(人に会う、見られる)がない故に気持ちの
切り替えが無く、ずーっと同じテンションでいる状態に陥りやすいのだ。
誰も見ていないのにおしゃれをするのは至難の技だが、たまにふと鏡を
見て自戒しなければ・・・作品もだれてきてしまう!
だからと言ってもう一度ラッシュアワーの電車に乗る勇気もない。
通勤時間が無いメリットもたくさんあるのも事実ですから・・・
やれやれ、人間ってなんてわがままなんでしょう?!
2000年2月15日
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第5話 通勤時間
2008-11-15T21:29:23+09:00
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第6話 誰だったかな?
私は人の名前を覚えるのが苦手である。
もうこれが見事というくらい覚えられないのである。
別に覚える気がない訳ではない。ただただ覚える才能がないのである。
一番困るのは個展の時だ。
お客さんは私の事をしっかり覚えていてくださる。
大変光栄で嬉し...
もうこれが見事というくらい覚えられないのである。
別に覚える気がない訳ではない。ただただ覚える才能がないのである。
一番困るのは個展の時だ。
お客さんは私の事をしっかり覚えていてくださる。
大変光栄で嬉しい事だ。しかし、私がお客さんを思い出せないのである。
個展会場によっては2年間も間が開いている。
毎回、個展には毎日多くの方が訪れてくださる。
もちろん遠方での会場では100%にちかい方が、初対面の人である。
色々と作品の説明もさせていただき会話もしてその時は、しっかり
覚えている?のだが、次のお客さん、その次のお客さん・・・と
新しい記憶が入ってくると「ところてん」のように、古い記憶が順番に
外に排出されるのである・・・まるでメモリーの容量の少ない二昔前の
コンピューター部品のようだ。
特に似た苗字には毎回困惑してしまう。
「石崎さん」「石垣さん」「稲垣さん」等。
誠に申し訳ないが何回も覚えようと努力してもダメである。
特に個展会場で「私の事、覚えてますか?」と言われた時には
顔面蒼白である。本当に逃げ出したくなるのである。
こうも記憶力が悪いと、いくらごまかしていても、
ごまかしきれなくなる。さすがに最近はお客さんに正直に
「すみません、お顔とお名前の記憶が・・・」と言って
前回買って下さった作品の話題などから遠い記憶を引き出すように
している。もちろん個展の前には前回のお客さんリストで予習をして
行くのだが、お客さんも前回と同じ髪型、同じ服、同じ体型ではない。
いい訳するわけではないが、髪型や服装が変わると本当にわからない
ものである。
個展会場でもし私が作り笑顔をしていて、なんとなく困った風な
雰囲気だったらたぶん頭の中ではこんな事を考えている時です。
「誰だったかな?」「誰だったかな?」「誰だったかな?」
2000年2月25日
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第6話 誰だったかな?
2008-11-15T21:27:17+09:00
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第7話 二重人格
陶芸家に限らず誰でも二面性を持っている。
明るい自分、暗い自分。派手な自分、地味な自分・・・等々。
私の個展では花器を中心とした、どちらかと言うと土味を生かした
落ち着いた作品(炭化焼成)と、
食器を中心とした派手な作品(金、銀、赤、緑)を展...
明るい自分、暗い自分。派手な自分、地味な自分・・・等々。
私の個展では花器を中心とした、どちらかと言うと土味を生かした
落ち着いた作品(炭化焼成)と、
食器を中心とした派手な作品(金、銀、赤、緑)を展示している。
お客さんによく「これって、一人の作家の作品ですか?」と言われる。
そうなのだ!まるで別人がグループ展を開いているかのごとしなのだ!
自分でも時々「こんな展示の個展でいいのか?」と自問する時も
あるのだが、何回考えてもどちらも自分の表現したい事であり、
どちらもお客さんに見て欲しいのである。
ほとんどの作家は自分のスタイルを持っていて、
たとえば焼き〆の作家なら焼き〆作品が会場を埋める。
青磁の作家なら青磁の作品が会場を埋め尽くす。
各々の作家は専門分野の手法をより専門にするべく日夜研鑚を
つんでいる。しかし、私の場合、焼き〆ばかりやっていると、
絵付けがしたくなってくるし、逆に絵付けばかりしていると
土味が恋しくなる。
こんな事では何ひとつ大成しないんじゃないかとそれはそれで不安にも
なったりするがどうしようもない。
それぞれの自分がそれぞれの仕事をしたがっているのだ。
またお客さんも渋い系と派手系に分かれていて、それぞれの
支持者になってくださっている。
別にどちらかに無理にスタイルを決める必要は無い。
物を作る時に大事な事は自分に正直になる事だ。他人が何を言おうと、
自分の表現したい事を貫く事だ。これは物作りに限った事ではない。
自分にウソをついての行為はたとえ成功したとしても、どこか後味が悪い。
今の私の作品は、まるで二重人格者のようであるが、本当の事を言うと
二重人格、三重人格が混ざり合っての、自分が本当の自分のような
気がする。
年を重ねる事によって、また新たな自分を発見できれば、
それはそれで嬉しい事であるが今しばらくは二人の自分の好きに
させていただく事とします。
2000年3月5日
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第7話 二重人格
2008-11-15T21:25:38+09:00
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第8話 定収入
多くの自由業の人は「定収入」と言う言葉とは無縁だ。
「ボーナス」「有給休暇」「退職金」という言葉もテレビや新聞から
聞くだけで、少なくとも私には無縁の言葉だ。私の場合、月収ではなく
年収と言う単位で生活生計を立てている。
月収だと限りなく¥0に近い...
「ボーナス」「有給休暇」「退職金」という言葉もテレビや新聞から
聞くだけで、少なくとも私には無縁の言葉だ。私の場合、月収ではなく
年収と言う単位で生活生計を立てている。
月収だと限りなく¥0に近いという事もよくある事なのだから・・・
陶芸作家としてだけで食べていく前は、私は給料をもらっていた。
親父の仕事を手伝っていたからだ。「ボーナス」もあった。
日、祭日も暦通りに休ませてもらっていた。決してたくさんもらっていた
訳ではないが、決まった給料はもらえる。会社が儲かっていようが、
いまいが決まった額の給料だから、給料内で生活している分には
何の心配もない。
現在は純粋に私の作った作品を売って生計を立てている。
いわゆる「独立」である。主に個展を開催し作品の売上によって
収入を得ている。当然、定収入ではなく売上によって収入は変わってくる。
ただ、不思議と安定している給料をもらっている時より、この限りなく
不安定な収入の方が面白いのである。なぜか、財政的にピンチの時に限って
必ず助け船がやってきてくれるのである。公募展で賞金が入ってきたり、
日頃お付き合いの無い方から注文を頂いたり、日頃売れないオブジェなどが
売れたり、自動販売機に釣銭が取り忘れてあったり・・・
実に不思議にも毎回こうやってピンチを脱出してきた。
だからと言ってただ良い話が転がり込んでくるのを、
ぼんやり待っているわけではない。がんばり無くして結果は望まれないし、
運もついてこない。最近がんばった結果としての実感が少しずつではあるが
湧いてきている。決して目に見える程ではない。なんとなくである。
がんばった結果として収入が多いにこした事はないが「定収入」より
今は「低収入」の方が私は面白い?
2000年3月15日
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第8話 定収入
2008-11-15T21:24:01+09:00
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第9話 先生!
世の中「先生」と呼ばれる人達は意外と大勢いる。
学校の「先生」はもとより、代議士、法律家、会計士、
等々色々な「先生」がいる。芸術家もよく「先生」と呼ばれる事がある。
生まれて初めて個展を百貨店で開いた時、「先生!」と呼ばれた。
始めは誰の事...
学校の「先生」はもとより、代議士、法律家、会計士、
等々色々な「先生」がいる。芸術家もよく「先生」と呼ばれる事がある。
生まれて初めて個展を百貨店で開いた時、「先生!」と呼ばれた。
始めは誰の事を指して「先生」と呼んでいるのか分からずにいたのだが、
自分の事をそう呼んでいる事に気付いて正直、驚きと照れくささの
入り混じった不思議な気分になった記憶がある。
「先生なんて呼ばずに、名前で呼んでください!」と申し出たところ、
「画廊では作家の方は先生とお呼びする事になってますから・・」と
言われた。
芸能界では昼だろうが夜中だろうが、あいさつは
「おはようございます」になっているのと同じで、
人間国宝級の作家だろうが、初めて個展を開く若僧作家だろうが、
とりあえず画廊の中では「先生」とよばれるのである。
それと最近よく色々な美術関係の会社や団体から手紙を頂く事が
あるが、宛名には「熊本栄司 先生」と書いてある。
妻はそれを見て「熊本先生ね〜?!」と半分笑いながら、
「いつから先生になったんだろうね〜?!」・・・てな調子である。
確かにいつから「先生」になってしまったんだろう?
お恥ずかしい話ではあるが、最近では「先生」と呼ばれる事にすっかり
慣れてしまい、画廊で「先生!」と呼ばれれば「ハイ!」と
答えてしまっている自分がいる。
「先生とは呼ばないで下さい」と言っても無駄である。
それはあくまで呼び名であって、本当の意味での「先生」ではないから
である。だから「名前でよんでください」と言ってもかえって
店員さんに迷惑なだけだ。
私は教えるのが大の苦手であるから、一生、真の意味での先生には
なれない。教わる方がいい。新しい事をどんどん覚えていく事は
本当に面白い。教えるのは自分の容量の中からの切り売り的な事だけれども、
教わるのは無限大だ。「先生」とよばれる事に慣れて、自分自身の勘違いに
ならないように心がけて行きたいものだ。
人間死ぬまで勉強だ。私はずっと「先生」ではなく
「生徒」としての心構えで臨みたい。
2000年3月25日
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第9話 先生!
2008-11-15T21:22:36+09:00
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第10話 審査
第三話で公募展の話に触れたが、今回はその中身にせまってみたいと
思う。
公募展に出品するたび、やはり結果は気になる。
審査結果通知が届くまではなんとなく落ち着かず、一日千秋の思いで
結果を待つ。そして審査の結果に一喜一憂。他人から見ると全然た...
思う。
公募展に出品するたび、やはり結果は気になる。
審査結果通知が届くまではなんとなく落ち着かず、一日千秋の思いで
結果を待つ。そして審査の結果に一喜一憂。他人から見ると全然たいした事
ではないんだけど、やはり当人はそれがすべてなのだ。
がんばればがんばっただけその思いは募る。
そして結果が出て、実際にその展覧会を見に行くと、たびたび不思議な
感じになる。つまり、納得が自分の中に出来ないのだ。
何が納得できないのかと言うと審査結果についてなのだ。
著名な人達が審査しての結果だから、青二才の私がその審査結果にとやかく
言うのは「釈迦に説法」状態で、大変、生意気だとは思うが、
納得しないものはしないのだから仕方がない。
毎回、公募展の搬入の時には、大勢の出品作品を見る事が出来る。
一目見ただけで「これはスゴイ!」と思える作品がたくさんあり、
絶対入選、いや入賞するであろうと予測がたつのだが・・・
いざ蓋を開けてみると入賞どころか選外という結果だったり、
それとは逆に「これは一次審査で落ちるな〜」と思った作品が入選、入賞を
果たすという現象がよくあるのだ。あくまでも私個人の基準での話だが。
だけど、ここに「たぶん熊本に見る目がないからだ!」・・・と
簡単にくくれない事例があるのだ。私の知人で一度落選した作品を、
何年か後に出品したらみごと入選!という事もあり、どうにも納得しがたい。
審査員もさしてメンバーチェンジしていないのにだ!!
美術の場合、作品の良し悪しを判断する基準というのは、
審査員の価値判断に尽きると思う。
オリンピックの100メートル走みたいに誰が見ても文句なしの審査ではない。
だから、出品した時点でのタイミングや審査員の顔ぶれ等に大きく結果が
左右されると言う事なのだ。
あのゴッホでも、当時評論家からボロクソに批判されていて、
生涯の間でたったの一枚しか絵が売れなかった。しかし、現在は一枚何億円
としている。当時の評論家という審査員の判断は今の時代では誤りだった
ともとれる。
人が審査をするというのは、かなりいい加減なものと言えなくもない。
別に入賞、入選した作品が悪いと言っている訳でもないし、
審査員が選んだ作品がすべて納得できないと言っている訳でもない。
文句なしの結果で納得のいく時ももちろんあるが、一番大事なのは
自分がいいなと思った作品への評価が審査結果によって
「私はやっぱり見る目がないんだ、大した作品じゃなかったんだ!」とか
「あんまり好きじゃないけど大賞を取っているのでスゴイ作品なんだ!?」
と妙に納得してしまう事なのだ。
最近の公募展の審査は複数の審査員での多数決によって決められると
聞く。だから中には自分が良いと思った作品に票を投じている審査員も
いるであろう。審査結果はあくまで、仮の姿だ。
絶対ではない!落選よりも入選する方がいいに決っているが審査結果よりも
やはり自分の価値判断を最後まで貫く事もまた大事だと思う。
作品の最大の価値基準は自分が好きか嫌いかだけなのだから・・・
2000年4月5日
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第10話 審査
2008-11-15T21:20:49+09:00
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第11話 畑ちがい
私の個展会場の入り口にはプロフィール(陶歴)が掛けてある。
まずは生年月日、そして学歴が書いてある。
「麗澤大学外国語学部イギリス語学科卒」
そしていつも同じ事を言われるのである。
「畑ちがいの学校出られたのですね!」・・・と。
そして毎回「...
まずは生年月日、そして学歴が書いてある。
「麗澤大学外国語学部イギリス語学科卒」
そしていつも同じ事を言われるのである。
「畑ちがいの学校出られたのですね!」・・・と。
そして毎回「えー、まあ・・」と答えるのである。
よほど外国語学部を出た人と陶芸とが結びつかないのであろうか、
「卒論はシェークスピアなんですよ」と言うと
またまたビックリ仰天されるのである。
かつてのアメリカ大統領のレーガンだって俳優さんだったし、
手塚治だって医学出身だし、タモリだって芸能人になる前は
保険の外交員をしてたのだ。別にそれほど驚くことではないと
思うのだけれど・・・
最近陶芸関係のメーリングリストでよく見かける投稿は
「陶芸家になりたいのだけれども、どうしたらなれるのでしょうか?」とか
「どこかの作家に弟子入りした方がいいのだろうか?」というような
声をよく聞く。
どうも日本人は何かになるためには、きちんとした順序があって
きちんとそれをこなしてこないとダメなような風潮がある。
陶芸家になるには芸大を出るか専門の学校で勉強し、どこかの作家先生の
元で2,3年修行してから初めて独立!・・・という図式である。
外国語学部を卒業して次にくるのは通訳とか翻訳家、添乗員という
イメージが大多数のそれである。
もし、本当に陶芸家になりたいのなら、明日にでもなれるのである。
今現在、弁護士をやっていたって、プロレスラーだって関係ない。
土は近くの材料屋で買ってくればいいし、窯は人に借りればいい。
後は自分の作品を生み出すだけだ!
ただそれだけの事なのに「どうしたらなれるのか?」という
質問が来ると言う事は、「どういう事をやってこないとなれないのか?」
という陶芸家になる事よりも、なる前の事で悩んでいるように思えて
仕方ないのだ。逆に言えば、芸大を出てどこかの作家の元で修行したから
と言って「もの」になるとも限らない。もちろん下準備の期間はあるに
越した事はないが、なくてはならない事もない。
私の好きな陶芸作家は皆、大学や学校で陶芸を専攻せず、それ以外の
分野出身者が多い。個人的な感想だけど、その人たちの作品はよくある
王道を進んで来なかった分、どこか自由で奔放的だ。それとは逆に芸大で
ある先生について勉強してきた人の作品の中には、ややもすると先生の
コピーみたいな作品を作っていたりして・・・
「抜けきらんな〜」という印象を持ってしまうのも多い。
専門的に勉強するために美術学校に入るのもいい、作家の元で
修行するのもいい。でも全然畑ちがいの事をするのもまた、楽しい!
違う畑ではまた別のものが収穫できるかも知れないよ!
2000年4月15日
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第11話 畑ちがい
2008-11-15T21:18:29+09:00
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第12話 萬古焼
萬古焼(ばんこやき)
・・・・はたして何人の人がこの名前を知っているのであろうか?
何人の人がその意味を説明できるのだろうか?
自慢じゃないが萬古焼を知っている人は全国的に見るとかなり
少ないと言えるだろう。
その大きな理由としてはまず...
・・・・はたして何人の人がこの名前を知っているのであろうか?
何人の人がその意味を説明できるのだろうか?
自慢じゃないが萬古焼を知っている人は全国的に見るとかなり
少ないと言えるだろう。
その大きな理由としてはまず第一に「萬古」が地名でないと
いう事だろう。備前とか九谷とか有田みたいに地名でない故に
どこの焼き物なのかさっぱりわからない。
第二にどんな焼き物を萬古と呼ぶのかがはっきりしないという事だろう。
急須なのか、土鍋なのか、大量生産の花器や食器なのか?
これまたさっぱりわからない。
これだけ悪条件がそろっていれば、知っている方が不思議なくらいだ。
私個人の見解だが、四日市で焼かれているものはすべて「萬古焼」
なのだ。そう、「なんでも焼」である。ここに萬古焼の悲劇がある。
なんでもかんでも焼いているので正体がつかめない。
実際、四日市で作陶している私でさえ、ハッキリした正体がわからない。
こんな状況ではどうして人に萬古焼を伝えることができようか?
第一話でも触れているけど、私は信楽の土を使って作陶している。
それを四日市で焼いているから「萬古焼」、
もし同じ物を信楽で焼けば「信楽焼」になるだろう!
まあこれは焼き物に限ったことではない。
全然違うところで採れた、または生産したものを名前だけ有名産地に
擦りかえて売る、なんてよくある話だ。
だけど悲しいかな「萬古焼」は有名産地ではないのである。
(地元の人は除く)一部の急須愛好家が萬古の紫泥急須を珍重は
しているが、あくまでもマニアックの世界である。
変な話、たとえば備前ではないけど限りなく備前に近い所で出来あがった
作品を「備前焼」として売ることはあっても、近くだからと言って
あえて「萬古焼」として売りに出す人は少ないだろう。
個展の時でも「何焼ですか?」と聞かれるのが一番ツライ!
「萬古焼なのに萬古焼でない」そして
「萬古焼でないのに萬古焼」である
私の作品はそのアイデンティティーを何処に求めればいいのだろうか?
私は萬古焼の街で生まれ育った。子供の頃、「萬古まつり」は
楽しみのひとつだった。だから「萬古」という言葉には愛着がある。
萬古焼を有名にしたいのは、やまやまである。
だけど実態が掴めにくく説明しづらいこの事実に背を向ける事は
できない。無責任にただ「萬古焼」を連呼していれば知名度が
あがっていくほど世の中甘くない。やはり有名になるには他人を納得させる
だけのシンプルで独特なる理由が存在しなければならない。
毎年5月の第二土曜日と日曜日に萬古まつりが開かれる。
業界の不景気と高年齢化により毎年出展者数が減少の一途をたどっている。
さみしい限りだ。
いつの日か「私は萬古焼で有名な四日市で焼き物修行したい!」と
言ってくれる若者が出てくるようになるには、誰かが巨星となるしかない
のであろうか? かつて無名な街、益子を有名にした浜田庄司のように。
2000年4月25日
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第12話 萬古焼
2008-11-15T21:15:49+09:00
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第13話 焼成
陶芸の場合、焼くという行程が最後にやってくる。
炎もしくは熱で土自体が固まり、焼きしまり、器の表面をおおっている
釉薬は溶け出す。この作業だけは人の手が入ってゆけない神に領域の
ような気がする。
1200度くらいまでに温度が達すると、窯の中は...
炎もしくは熱で土自体が固まり、焼きしまり、器の表面をおおっている
釉薬は溶け出す。この作業だけは人の手が入ってゆけない神に領域の
ような気がする。
1200度くらいまでに温度が達すると、窯の中は光り輝いていて
中の様子すらわからなくなる。この高温をくぐりぬけ、
はじめて作品ができあがる。もちろん、失敗作もでる。途中で割れたり、
歪んだり、釉薬が溶けすぎて流れ出し、棚板(下の板)に
くっついてしまったり・・・。
正直、「焼成がなかったらどんなに楽か?」と思う時もある。
窯の中はいわゆるミステリーゾーンで、我々が理解できるのは
焼成前と焼成後だけである。その途中の過程はまったく、うかがい知る事が
できない。なぜか火をくぐると新しいモノ、違うモノに生まれ変わるのだ。
それは生と死でもある。陶芸の場合、焼成によって新しいモノが
誕生するわけだが・・・それは死をも意味する。
柔らかい土が熱で固まり、すべてを封じこめて時は止まる。
古代の埴輪や土器がいい例である。時間は止まり、同じ状態が永遠に続く。
それとは逆の死もある。私事なのだがここ2ヶ月の間に祖父、祖母3人
が他界した。火葬場で骨を拾う時はいつもなにかしら無常なものを感じる。
たしかにほんの少し前まで、祖父と祖母の面影がそこにあったのに焼成後
(荼毘に付された後)にはまったくちがう姿になっている。
そう骨だけになっているのだ。
同じ焼くという過程を経ても大きな差があると実感する。
片方はその存在を永遠のものにし、片方は無にしてしまう。陶芸の場合、
物理的に作品を固めるために焼成するのだが、我々作家はその「火の特性」
を作品に投影する事をひとつの自己表現として用いている。
焼いて物が変化する・・・このどうしようもない物理的であり、
哲学的である過程を今一度見つめ直すと、また違った新しい作品が
生まれてきそうだ!!
2000年5月5日
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第13話 焼成
2008-11-15T21:13:24+09:00
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第14話 画廊めぐり
先日、東京へ用事で出かけた時、暇を見つけて銀座の画廊めぐりを
やってきた。有名百貨店の画廊から路地裏にある画廊まで、とりあえず
陶芸作家の個展を片っ端から訪れた。
個展会場には作家らしき人。いつもとは立場が逆転してお客さんと
して会場の中を歩...
やってきた。有名百貨店の画廊から路地裏にある画廊まで、とりあえず
陶芸作家の個展を片っ端から訪れた。
個展会場には作家らしき人。いつもとは立場が逆転してお客さんと
して会場の中を歩き、作品を鑑賞する。
もちろんただ鑑賞するだけではなく、技法や手法などを想像し時には
作家に直接質問する場合もある。値段の付け方なども参考にする時もある。
一口に画廊で個展と言っても色々である。趣味や教室の生徒さん、
定年退職後の作家さんなど主に作品発表会としての個展。
それと個展を生活の糧を得るために開いている人(私みたいな人ですね)。
色々である。
作り手も色々なら画廊のオーナーも色々である。
私は陶芸を専門に見て回っているのだけど、やはりオーナーの趣味、
嗜好が展覧会に如実に反映されている。こだわりと呼ぶのであろうか?
その中でも特に若手作家に気軽に開放してくれる画廊の主人には敬意を
はらいたい。当然若手作家の多くは有名ではない。よって集客人数、
売上等そんなに多くは期待できない。貸し画廊の場合、賃貸料を前もって
支払うので売れても、売れなくても画廊側には関係ないのであろうが、
それでも画廊のレベルを維持するために、ある程度の力量がないと個展を
させてくれない所もある。
まあ、それは画廊側が決める事だからこちらから何も言う事はない
のだが、それでも将来を期待して快く開放してくれる画廊には頭が下がる
思いだ。無名作家の個展よりはやはり有名作家が使ってくれた方が
やはりメリットが多いだろうから。
某有名デパートの美術の人とこんな話をした事がある。
「ここで個展をさせていただくには、どうすればいいんでしょうか?」と
私が訪ねると、「失礼ですけど、先生はいくら売りますか?」と
いう返事が返ってきた。
別にこの返事に腹は立たなかった。
デパートも遊びでやってる訳じゃない。
作家は売れてなんぼだと私自身もそう思っている。
万が一、私がそこそこ有名になってそこそこ売れる作家になった時、
損を承知で開放してくれた画廊には「ここの画廊に育ててもらった」
なんて事を会う人、会う人に吹聴するであろう。
そして、こうも吹聴するだろう、
「私が無名だった頃、あそこの画廊には門前払いをくった」と・・・
人間は勝手なもので、自分に都合のいい事しか言わないものだ。
今回の独り言もきっとそうだろう!それぞれの立場、立場でモノを見ると
意見は違ってくる。とりあえず今は、良い作品を作る事に心がけ、
どこからでも声をかけていただけるように作陶するしかない。
やはり作品勝負なのだから。
2000年5月15日
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第14話 画廊めぐり
2008-11-15T21:11:42+09:00
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第15話 オリジナリティー
作家として一番大事なのはオリジナリティーだと思っている。
これは私が作陶する時の理念であり主義である。
誰が何と言おうとこの姿勢だけは変えられない。
新しく作品を作り出す時、まずオリジナリティーがあり、
技術や知識等は二の次、三の次であ...
これは私が作陶する時の理念であり主義である。
誰が何と言おうとこの姿勢だけは変えられない。
新しく作品を作り出す時、まずオリジナリティーがあり、
技術や知識等は二の次、三の次である。極端な話、オリジナリティーが
生み出せない人は、いくら学校に行ったり弟子入りしたって
いつまでたっても作家にはなれないと思う。
ただし職人さんを目指している人は別だ。
職人とは言われた仕事を完璧にこなすプロであり、
技術や知識を要するからである。
しかし職人の世界にはオリジナリティーは存在しない。
いや、してはいけないのだ。クライアントもしくは上の人からの要請に
こたえてその物を作るのだから。勝手に自分の好みをそこに入れる事は
許されない。しかし完璧に要請どおりの物を生み出すのだ。
作家は職人とは違う!
職人さんは先に技術がなければ話にならないが、作家の場合、
技術は後からついてきても全然大丈夫なのだ!・・・というか、
始めに何を表現したいかがあってその表現のためにはどんな技術や技法が
必要なのかが決ってくるからなのだ。作家は今までにない、
これまたオリジナルの技法を生み出すのが、仕事となってくる。
つまりロクロも出来、手びねりも出来、板づくりも出来、
型成形も出来・・・なんて必要はまるでない。実にナンセンスだ!
陶芸家だからロクロがひけなければいけない事は全くないのである。
どうも日本の教育システムが専門家を生み出すのに合っていないような
気がする。学校に入るのに、国語、数学、理科、社会とバラバラの科目を
バランスよくすべてこなさなければいけない。すべての科目に得意な人
なんてこの世に存在するのだろうか?得意じゃない科目の点数を上げる
努力とはいったい何のためだろう?
陶芸の世界も同じ感覚でとらえている人が多い。
知識は豊富!ロクロも上手にひく、
でも作品を見ると「なんじゃ、こりゃ〜?」(松田優作風に)である。
私の経験では色々と陶芸の「うんちく」をたれる人ほど、
そしてそこそこオールラウンドにそつなく作れる人に限って、
作品は何処かの教科書や雑誌、美術書に出てくる作品を模倣してる
パターンが多い。オリジナリティーに欠け、見ていて全然面白くない。
ある意味そういう昔の名品は決してそれを抜く事ができない。
誤解なき様に最後に付け加えておきたいが、学校などで技術を習得する
事自体は全然悪い事ではなく、技術や知識はあるにこした事はない。
最低限の技術と知識は必要だ。ただロクロがうまくなったからと言って
そんなに威張れるものではない。ロクロがうまい人なんて日本中に
溢れている。大事なのは自分のロクロをひく事なのだ。
作家とは自己表現。作家とはある意味ナルシストであり、自分の作品に
陶酔しないとだめだ。その為には陶芸の常識すらブチ破る心意気が
必要なのだ。
作家は技術を習得するのも大事だが、オリジナルの作品を生み出す事
の方が大事だと考えている。
2000年5月25日
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第15話 オリジナリティー
2008-11-15T21:09:44+09:00
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第16話 プラス志向
「プラス志向」すなわち、全ての物事を前向きにとらえる姿勢である。
正直言って私はどちらかと言うと「マイナス志向」である。
決して自慢できる事ではない!昔から何かと心配性で修学旅行の
前の晩には、必ず集合時間に遅れる夢を見ていたし、いくつもの個...
正直言って私はどちらかと言うと「マイナス志向」である。
決して自慢できる事ではない!昔から何かと心配性で修学旅行の
前の晩には、必ず集合時間に遅れる夢を見ていたし、いくつもの個展を
開いてきた今になっても、個展に作品が間に合わなかった夢や、
売上がゼロの夢をよく見る。実に情けない。
こういう事は産まれもった性格なのか、育ってきた環境が
そうさせるのか?いずれにせよ「プラス志向」とは程遠い性格だ。
作陶する時でも、せっかく良いアイデア、もしくは作品のイメージが
浮かんでも、まずは問題点から探って行く。「このフォルムはとっても
良いんだけど、たぶん乾燥段階で割れてくるだろうな〜」
「運良くうまく乾燥できてもたぶん焼成にこの形や大きさでは耐えられないだろう」
・・・てな具合だ。
とにかく悪く考え出すときりがない!本当にきりがないのだ。
ひとつの作品を仕上げるまでの問題点を上げ出したら100でも
足らないだろう!
一昔前、あまりの心配性に体を壊した事がある。
これまた自慢できる事じゃない。プラスを小さくマイナスを大きく
とらえる癖は時に体の調子まで悪くしてしまう。
それで「このままではいかん!」と言う事でほんの少しだけ
「プラス志向」に転じてみた。
「次回の陶芸ビエンナーレ展では必ず入賞する!!」と会う
陶芸仲間や友人みんなに豪語したのだ。
カミさんにも「そんな事言って、落選でもしたらカッコ悪いよ!」と
釘をさされる始末だった。
今から考えると、そんな事は別にプラス志向ではなく、
自分の心配性解消のための暴挙だったのかもしれないけど、
結果はグランプリ受賞だった!
それからは、極力良い方向に物事を考えるようにした。
それは心の奥底からそう思わなくても、表面上だけでもいいのだ。
(マイナス志向なので心の奥底からなんて到底無理だ!!)
顔も態度も自信満万!!!
「公募展では必ず入賞する!」
「自分の作品は良い!」
「売上はいつもコンスタントに心配げなく売れて行く!」
「将来は日本を代表する作家になる!」
「俺はモテルかも!?」
「将来、宇多田ヒカルと友達になる!!」(おいおいっ!)
・・・本当の自分は全くそれとは逆の気弱い人間なんだけど・・・
そんな表面上の態度でも長年続けていると、何時の間にか
そちらの自分が本当の自分になるような気がしてならない。
今ははったり、ごまかしなんだけど・・・
2000年6月5日
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第16話 プラス志向
2008-11-15T21:07:10+09:00
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第17話 飯碗の悲劇
人間、誰もが平等と私は思っていない。
それどころか人は大いなる不平等の中に生きている!
身体的な事もしかり、経済的な事もしかりだ。
小さい頃学校で「人間は皆、平等なのです!」なんて
教えられたけど、そんな現実を無視した理想論を掲げている間は、...
それどころか人は大いなる不平等の中に生きている!
身体的な事もしかり、経済的な事もしかりだ。
小さい頃学校で「人間は皆、平等なのです!」なんて
教えられたけど、そんな現実を無視した理想論を掲げている間は、
本当の意味での平等なんて永遠に来ない。
どう見たって大金持ちの子と貧乏な家の子と平等のはずが無い!!
もし平等だとおっしゃる方がおられるのならメールにてご一報願いたい。
不平等といえば何も人間の世界だけではない。陶芸作品の世界は
人間世界のそれに勝るとも劣らない程、過酷で厳しい!!
例えば、「ぐいのみ」と「飯碗」。どちらがお値段が高いでしょうか?
もちろん例外もあるだろうけど一般的に「ぐいのみ」の方が値が高い。
大きさから判断するとはるかに「飯碗」の方が大きいはずだ!なのに
その何分の一の大きさしかない「ぐいのみ」に負けてしまうのだ。
おまけに「ぐいのみ」は木箱なんかに入れてもらえるのだが
「飯碗」の場合、ほとんど木箱にお世話になる事は無い。
では同じ茶碗でも「抹茶碗」(茶席で使うそれです)と「飯碗」では
どうだろう?これは「待ったなし!」で「抹茶碗」の勝利で
値段も飯碗よりははるかに高い!モノによっては、ほとんど大きさも重さも
同じ。なのにどうして「抹茶碗」が勝利するのだろうか?
そして「飯碗」は敗北してしまうのか?
答えは簡単。「飯碗」だからなのだ。
飯碗は生まれて死ぬまで飯碗なのだ!木箱に入れられる事なく、
何十万円という値段が付くわけでもなく、その一生を終える。
ああ、悲しいかな飯碗人生!!
そうなのだ。名前によってモノの値段が変わってくる不思議な
不平等陶芸ワールド!!
もし仮に大きな円柱形の花器があるとして、これが百万円だとしよう。
もしタイトルを「花器」ではなく「傘立て」としたらどうなるか?
百万円の傘立てなんてどこかしら、ずれている。
そして、もし仮に50万円の大きめの「ぐいのみ」を「湯呑」と
名前を変更したらどうなるだろうか?一個、50万円の「ぐいのみ」は
存在しても50万円の「湯呑」は常識的に考えたら存在しないのだ。
飯碗の場合、作家作品でだいたい一個、2500円から6000円
くらいではないだろうか?一万円以上の飯碗はあったとしても例外的で
ある。飯碗の場合、名前が「飯碗」である以上この状況は永遠に変わらない
であろう。まさに飯碗の悲劇である。
・・・飯碗は決して果物屋さんのメロンにはなれないんだ!!
世の陶芸家の多くは飯碗をつくるのを避け、抹茶碗をつくる。
その大きな理由として庶民の飯碗をつくるより、ブルジョワの抹茶碗を
作ったほうが、儲かるから?なのかも知れない。
2000年6月15日
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第17話 飯碗の悲劇
2008-11-15T21:05:12+09:00
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第18話 陶芸家の一日
皆さんは陶芸家の一日と聞いてどのような一日を想像されるだろうか?
たぶん土をこねて、ロクロの前に座りただひたすらに作品を作っている、
もしくは燃え盛る窯の中に薪を投げ込んで炎と対決している風景であろうか?
まあ、それも間違いはないけれども、い...
たぶん土をこねて、ロクロの前に座りただひたすらに作品を作っている、
もしくは燃え盛る窯の中に薪を投げ込んで炎と対決している風景であろうか?
まあ、それも間違いはないけれども、いかにも陶芸家らしい時間と
いうのは皆さんが思っているよりずっと少ないと思われる。
今回は色々な陶芸家の一日を紹介したいと思う。
一、今日は、ロクロでの製作。実際の時間配分は作っている時間が
メインである事には違いないが、準備や後片付け等にも相当時間を取られ、
ややもすると清掃員状態の方がメインになる場合もある。
どちらにしても泥だらけの一日である。
一、今日は、絵付けの仕事。ロクロの作業同様、絵付けがメインの
仕事なのだが、よくよく分析してみると、絵の具の調合にこれまた相当時間
を取られている。時間が経過すると絵の具の状態も変化するため、
たえず良い状態をキープするのに、苦労する一日である。
一、今日はお客さんが来る。色々と作品の説明などをさせてもらう。
引き出物等の注文に関しては納期、個数、のしの書き方、など細かい
打ち合わせをする。もちろん世間話も大切なお客さんとのコミニュケーションとなる。
結構外交的な一日である。
一、今日は作品の配達。買っていただいたお客さんの所へ、
作品を持って行く。なぜ配達をすると言う状態になるかというと、
作品の木箱などが後から出来てくる場合、作品をお客さんの手元まで
配達するという事になる。色々と走り回る一日である。
一、今日は個展の準備の日。焼きあがった作品のリストの製作。
写真撮影。木箱製作時に必要になる作品の寸法を計る作業等。
到底一日では終らない。DMの宛名書きにも相当時間がかかる。
結構事務的な一日である。
一、今日は先輩や友人の個展を見に行く。遊びの様に思えるのだが
これも大事な仕事のうちのひとつである。他の作家の作品を見て色々と
刺激を受けたり、勉強になったりもする。
より良い人間関係をキープするのには、義理や人情も大切にする一日である。
一、今日は特別な日。朝食は鉄人・道場六三郎の和食。
午前中はメトロポリタン美術館での個展の打ち合わせをテレビ電話でする。
オープニングパーティーにはマドンナとマイケルジャクソンが特別に
歌を披露してくれる事となる。
昼食は鉄人・陳健一の中華。
薬師丸ひろ子と原田知世と会食。
「セーラー服と機関銃」や「時をかける少女」の裏話を聞かせてもらう。
食後はマラソンランナーのロバ選手と軽くジョギングをし、
パン屋開業について話合う。夕方、筑紫哲也氏と現代社会について
語り合う。その後、夕食は鉄人・坂井のフレンチ。叶姉妹と会食。
ゴージャスな生活について色々と教えていただく。
ふたりのために、BGMは生演奏で楽しんでもらう事とした。
ちょっと遠いけどアメリカからセリーヌ・ディオンに来ていただき、
タイタニックのテーマを聞かせてもらう。
夜、エキサイティングな一日だったため、なかなか寝つけず、
稲川淳二氏に電話をして怖い話を聞いてようやく就寝!
・・・・というような事を想像し、イマジネーションを高めて
過ごすのも陶芸家の一日である????さぶ〜〜!
2000年6月25日
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第18話 陶芸家の一日
2008-11-15T21:03:05+09:00
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第19話 他人の目
人は誰しも他人の目を気にして生きている。
「俺は他人の目なんぞ気にしてねえよ!!」なんて
言う人がいるかも知れないが、それは嘘だ。
もし本当に気にしていないのなら街中を裸で歩けるはずだ。
我々は必ず他人の目を意識しながら生きている。
作家も人...
「俺は他人の目なんぞ気にしてねえよ!!」なんて
言う人がいるかも知れないが、それは嘘だ。
もし本当に気にしていないのなら街中を裸で歩けるはずだ。
我々は必ず他人の目を意識しながら生きている。
作家も人の子、自分の世界を主張するのが仕事であるが、
あくまで他人に見られるということを大前提として作品を作っている。
人がなんと言おうと我道をゆくのが作家なのだが、よくよく考えてみると
せっかく作品を作っても誰も見てくれなければ、何にもならない。
こと作品を売って生計を立てていくとなると、自分だけが満足と
いう感じでは到底生活はできてゆかない。他人が作品を買ってくれて
他人のおかげで生かされている事になる。つまり他人に認めてもらわないと
ダメなのだ。
かと言って、他人の目を気にしすぎたり、他人の批評を怖がって
いては、自分の作品は生まれない。丸い石ころみたいに、どんどん角が
取れて行き、どこでもある石ころにになってしまう。
そうなると作家としての存在価値は無い。
私個人的に思うに、自分の作品を理解してくれたり、
興味をもってくださる人は10人中1人でもいれば、バンバンザイである。
私の場合は100人に1人、いや1000人に1人かも知れない。
それでも理解者がいれば作家としては多いに救われる。
しかし、逆に考えると、その理解してくれる人以外は、
「興味がない」、もしくは「批判家」であるという事になる。
他人の目は厳しく、個展会場ではその目をいかに、受け入れるか?
または、いかにかわすか?になってくる。
「目のやり場に困る」と言うけれど、目の持っている力は恐ろしく、
その場の雰囲気はお客さんの目の表情ひとつで、穏やかになったり、
不安げになったりする。
あたりまえの話だが、他人は自分でないし、自分は他人でない。
つまり自分を本当に理解してもらうには、他人が自分と同化するしかない!
そんな事、不可能な事だ。
どこかしら部分的な共感で他人と自分が結ばれる。
永遠に個人は他人の目に写し出される被写体なのであるが、
よく写ろう!と思っても無駄である。人それぞれに目が違うから、
こっちで良くても、あちらではダメなのである。
つまり全員、全ての人に理解はしてもらえない。と言う事だけは
間違いない。
良い例が夫婦である。私なぞ女房と12年も一緒に暮らしているが、
お互いを本当に理解しあえるまでには、あと、100年ほど
かかりそうだ(爆)
作家とは他人の目を意識せず、他人の目を意識しなければならない。
う〜ん、難しい!!!!
2000年7月5日
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第19話 他人の目
2008-11-15T20:58:35+09:00
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第20話 天気予報
陶芸家と天気予報はあまり縁のない感じなのだが、
こと私にいたっては多いに関係がある。
私の場合、天気予報を見て次の日の仕事を決めると言っても
過言では無い。大きい作品を作る場合、やはり時間がかかるので
あまり急激に乾いても困るので、できるだけ...
こと私にいたっては多いに関係がある。
私の場合、天気予報を見て次の日の仕事を決めると言っても
過言では無い。大きい作品を作る場合、やはり時間がかかるので
あまり急激に乾いても困るので、できるだけ曇りや雨の日に
作るようにしている。またロクロで作ってから後の削り
(水引きから高台けずり)までの乾燥段階も、天気が晴れているのと、
雨が降っている時とは乾燥の仕方が変わってくる。
まして夕方にロクロをひいて、次の朝削りの作業の場合は心底、
天気予報頼みになる!次の日が曇りもしくは雨の場合はそのまま作品を
放置すればちょうど削りによい状態に持っていく事ができるが、
晴れる場合は乾きすぎて、削りづらくなるのでビニールをかぶせて
乾燥を防いだり、大きな缶の中に入れて乾燥しないようにする。
また冬季の場合も天気予報は滅茶苦茶大事である。
私の工房はスレートでそして広いので、冬の寒さが厳しい日には、
工房の中の水まで凍ってしまう環境だ!粘土で成形したばかりの作品は
水分を多量に含んでいて、もしこれを氷点下の所に放置すれば、
作品内の水分が凍ってしまい、作品が内部からバラバラに破壊されて
しまう!実に恐ろしい現象である。
であるから、冬季はもっぱら最低気温に注意を払っていて、
氷点下になる場合は作品に毛布をかけたり、それでも心配の時は
電球をそばに置き、作品が凍るのを防ぐ。
私は天気予報を頼りに生きてきたし、天気予報ほど頭を使わなくて
見れる番組もめずらしいので天気予報は大好きだった。
カワイイ人がお天気キャスターならなおの事だ!
しかし、最近私は天気予報に裏切られっぱなしなのである!!!!
おかげでひどい目にあっている。
特に今の時期(6月、7月)、天気がめまぐるしく変わるので
予報も難しいとは思うのだが、あまりにも外れすぎる。最新鋭の人工衛星
からのデータを分析しているわりにはお粗末だ。それと最近、気象予報士と
名乗る人達が現れ、自信満万に予報してくれるのだが・・・
それで不思議な事に、TV局にそれぞれ気象予報士がいるのに、
口をそろえて同じ予報をしている事だ。一人や二人くらいは、
「イヤ!私が思うに明日は雨だ!気象庁の発表では晴れだが・・
私の洞察力と野性のカンでは雨が降る!!!!」
という人物が出てきてもよさそうなものなのに、全員すべて同じ事を
言っている。
だったら気象予報士なんて資格はまったく意味をなさない。
もし上からの原稿を丸読みしているのだったら、変な予報士オジさんが
天気を説明するより、バドガールが説明してくれた方がず〜っと良い!!
もし予報士が予報をはずす事になった場合、次の日に陳謝するか、
気象予報士をやめるかくらいのプロ意識でやって欲しいものだ。
私の仕事の成功、不成功はあなた方の予報にかかっているのだから・・・・!!!
(ちょっと大げさかな?)
それから最後に・・・明日の予報も外れるのだから、
週間予報とか長期予報はやめておいた方が良いと思うよ!夏は暑い、
冬は寒いに決っているんだから!!
・・・と今回は、ちょっと愚痴っぽかったかな??
2000年7月15日
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第20話 天気予報
2008-11-15T20:51:58+09:00
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第21話 風貌
はっきり言って私は童顔だ!自慢するとかしないとかの問題ではない。
客観的な事実を述べている。
今、現在37才なのだが、どう見ても年相応には見られないみたいで
ある。極端な例ではあるが、先日、大学生に間違えられてしまった。
あまりに老けて見られ...
客観的な事実を述べている。
今、現在37才なのだが、どう見ても年相応には見られないみたいで
ある。極端な例ではあるが、先日、大学生に間違えられてしまった。
あまりに老けて見られるのも、嫌なものだがあまりに若く見られるのも、
自分としてはちょっと・・・という感が否めない。
個展の準備をしていても、はじめてお会いする方は、お弟子さんが
準備をしているのだと、勘違いされる始末である。
(弟子なんてとれる身分じゃないのに)
個展開催時には悲惨である。誰も私が作家だとは気付かない。
スーツにネクタイ姿で個展会場に立っていようものなら、
店員もしくは外商の人に間違われる。「陶芸家」と「熊本」という苗字から
連想される人物像(風貌)と本人とはかなりかけ離れているみたいだ。
店員さんが「この方が作家さんです」とお客さんに紹介すると、
決って「若い作家さんですね〜!」と驚かれる。漠然とした陶芸家の
イメージはやはり「おっさん」や「おじいさん」なのである。
(事実、私はおっさんなのだが)しかも若い作家の作品は未熟という
イメージで見られるのもツライものがある。確かに未熟者だけれども
同じ作品でもおじいさん作家が作ったのと若い作家が作ったのでは
見られ方に差が出てくるのが、傍で見ていてよくわかる。
つまらない話だが、なんとか年相応に見られ、威厳を持つには
どうすれば良いか自分なりに考えた結果、髭を伸ばす事にした。
2週間ほどガンバッテ伸ばしてみたが・・・なんとも評判が良くない。
カミさんからは特に嫌われた!!体が大きくローマの兵士みたいな体格なら
まだしも、背が低く痩せている私が髭を伸ばすとインドの修行僧になって
しまうのだ。トホホである。
人によっては「芸術家は若く見られるもんだよ!」と言うし、
ある人は「苦労が足りないから、若くみられるんだ」と
説教をくらうはめになってしまう。どちらの意見も当たっているようで、
はずれているようで・・・
人間にはどうしようもない事柄がたくさんある。
歯並びや鼻の高さなどの外見的要素は、努力とはまったくと言って
関係ない。知的な顔つきだから優れている人間という訳でもないし、
しわが多いから苦労を知っている訳でもない。
外見は非常に大事な要素である事には間違いないが、外見だけで
人物を判断されるのは正直、あまり気分が良いものではない。
昔、どこかで「心だけで生まれてくればよかった」なんて
セリフを聞いた事があるが、この歳になって、その気持ちがわかる
自分がちょっと情けない。 (沈)
2000年7月25日
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第21話 風貌
2008-11-15T20:48:57+09:00
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第22話 メンテナンス
この世のあらゆる物は時間が経過すると古くなってくる。
家屋しかり、自動車しかり、電化製品しかりだ。
これらを長持ちさせる為にはメンテナンスが必要だ。古くなった家の外壁に
ペンキを塗ったり、自動車のオイルやタイヤを交換したり、
電化製品の部品を交換し...
家屋しかり、自動車しかり、電化製品しかりだ。
これらを長持ちさせる為にはメンテナンスが必要だ。古くなった家の外壁に
ペンキを塗ったり、自動車のオイルやタイヤを交換したり、
電化製品の部品を交換したり・・・・
当然、人間だってメンテナンスが必要だ。
人間のメンテナンスとは、休息や休憩時間と言う事になる。
最近、自慢じゃないが土曜、日曜も無く、なんだかんだと休み無しで
きている。当然、子供をどこかに遊びに連れて行ってあげるなんて事は
今の所無理である。
個展の準備にかかる日数を逆算すると、休んでいられないのである。
また途中で失敗作が出てきて、またまた予定は大きくずれてゆく。
それ以外にも突発的な用事が割りこんで来て、ますます休めない。
しかし最近、「そうやって走り続ける事が本当に最善の方法なのか?」
と自問自答しはじめている。
忙しいから失敗する。失敗するから予定が狂ってくる。
予定が狂ってくるから忙しい!・・・の繰り返しでなんともセカセカして
いるだけで、良い成果が得られそうに無い。
まして、新しい作品、新しい自己表現を作り出すのに、このような
余裕の無い状態では決して良いアイデアは浮かんでこない。 困った!!
たとえば、今二人の木こりがいるとしよう。百本の木を切る競争を
始めた。一人はとにかく木を切りまくる。一心不乱に切りまくる。
もう一人は十本切っては休憩し斧を研ぐ。そうこうしていると、
さすがに一心不乱に切っているきこりはもうひとりの木こりよりも
大幅にリードしている。
しかし、ある本数までいくと斧がだんだん切れなくなってきたのだ。
もちろん理由は斧を研いでないからだ。切り口は荒れ、スピードは激減
する。そこへ先ほどまで休息し斧を研いでいる木こりが反撃を始めた。
鋭い斧は木を見事に切り倒してゆく。休んでいるので体力もある。
結果がどうなるかは、みなさんの想像におまかせする事とするが、
今の自分をみると前者の木こりに似ているような気がしてならない。
別に2週間や3週間の長期休暇が欲しいわけではない。
少ない時間で体力、精神力を回復(メンテナンス)できる自分を
作り上げていかなければいけないと思う。一日は24時間。
これは変えられない事実なのだから。
2000年8月5日
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第22話 メンテナンス
2008-11-15T20:46:09+09:00
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第23話 100円ショップ
先日100円ショップへ行った。
全ての商品が100円で売っているあのお店だ。
もう、ありとあらゆる物がそろっていて、しかもすべて100円と
いう安さ。思わずいらない物まで買ってしまいそうになる。
陶器も売っていた。ここで私はカナヅチで頭をガー...
全ての商品が100円で売っているあのお店だ。
もう、ありとあらゆる物がそろっていて、しかもすべて100円と
いう安さ。思わずいらない物まで買ってしまいそうになる。
陶器も売っていた。ここで私はカナヅチで頭をガーンと
殴られたような気分になった。
湯のみやお皿も100円。そして急須、土鍋まで100円!なのだ。
どうやって作れば100円で利益が出るのか、私の頭では理解できない。
後ろのシールを見てみると「MADE IN CHINA」と書いてある。
いくら人件費が安い中国とはいえ、急須や土鍋が100円とは
驚きである。
ちなみに私のコーヒー碗皿(金彩赤絵)の値段が今現在一個
八千円〜一万円である。私のコーヒー碗皿一個で100個買える計算である。
なんともはやである。
私の食器は自分で言うのもなんだが、1個、1個、手でロクロを回し、
金彩等、時間をかけて丁寧に作っているつもりだ。確かに一万円は高いと
思われるかもしれないが、それでも実際、かかった時間や労力を考えると、
それほど儲けはない。
(ちなみにお店で売れば、作家にはまるまる一万円入ってきませんよ)
手で作ったから良い物、機械で作ったから悪い物・・とは
私は思わない。手で作っていても、粗悪な物もあるし、機械生産でも
良い物はたくさんある。
しかし、いくら機械で作っているとは言え、
上代100円というのには、驚きを隠せない!
今、四日市の萬古焼業界も価格破壊の波に押されている。
みなさん、決して仕事をさぼっている訳ではない。しかし今のご時世、
真面目にやっていてもダメな場合もある。
なにせ100円である。いくら日本で企業努力をしても
店頭価格100円の商品を作る事は不可能としか思えない。
まあ、これは陶器の話だが・・・
こういう場合、どうすればいいのだろうか?もはや同じ土俵で
勝負をする事は無意味とも思える。
私の場合、同じ陶器でもなんか土俵が違うって感じで・・・
「100円?よくやるな〜」と最近思えてきた。
それでお遊びで100円の真っ白な急須を買ってきた。
それに赤絵、金彩をしてスゴイ急須にする予定だ!
友人に「これ100円ショップで買った急須だよ」と
自慢してやるんだ!?嫌味かな〜??
2000年8月15日
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第23話 100円ショップ
2008-11-15T20:44:26+09:00
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第24話 チャリティー
チャリティーと聞くと年末を思い浮かべるが、実は年末に限った事では
ない。1年を通して結構色々な所から、チャリティーのお誘いを受ける。
まあ、本当の所、こちらがチャリティーして欲しい経済状況なのだが、
日頃、世間にあまり貢献していないので、出来...
ない。1年を通して結構色々な所から、チャリティーのお誘いを受ける。
まあ、本当の所、こちらがチャリティーして欲しい経済状況なのだが、
日頃、世間にあまり貢献していないので、出来得る限りではあるが
参加させていただいている。放送局や新聞社、はたまたデパートが主催する
チャリティーが一般的だ。
また、正直な話、チャリティーのタイトルが無名作家の心を
くすぐるのだ。「地元著名人によるチャリティー展」とか
「東海地区選抜作家によるチャリティー」とか・・・
「ア〜、そうなんだ、自分は選抜されたんだ?!」なんて単純に
嬉しくなってしまっている。単純といえば単純だ!
私みたいな無名の作家が出品すると思えば、もちろん日本でも有名な
作家は当然リストに名前が上がっていてチャリティー展の目玉になる。
価格はチャリティー価格なので、有名作家の作品が安く買えると言う事で、
熱狂的な陶芸ファンが徹夜で並ぶ事もよくある。
まあ、安いと言っても正規の値段よりは安いと言う事で、当然私の作品
とは比べ物にならないくらいの値がついている。それでもオープンしてから
数時間で、人気作家の作品には赤札がつく。
何も早いもの勝ちのチャリティーだけではない。一口1000円で
チャリティーに参加して、くじを引き当たったら作品をもらえるという形式
のチャリティーもある。嬉しい事に私の作品の当選者からお礼の手紙を
頂戴する事もある。別にお礼を言われる立場ではないのだが、
すごく嬉しい。わざわざ手紙まで頂くとさすがに恐縮してしまう。
でも色々な形で貢献できたと思うと、作品を提供した甲斐があると
いうものだ。
ただ、毎回思う事なんだが、チャリティーの収益金がどのように
使われているのか知りたいものだ。何々財団に寄付しました!
まではいいのだが、その先はどのように使われているのかが分かると、
次回からいっそうチャリティーに出品する心構えが変わってくると
いうものだ。たとえば車椅子をいくつ買ったとか、
薬をどれほど調達できたとか・・・
まあ、私の貢献している金額では「使い道を教えてほしい!」と
言うのもおこがましいが、まあ、そういう問題じゃないからね!
あと税金の無駄遣いを省けば、すごい金額がチャリティーなり
福祉なりに回ると思うけど。
年末、チャリティーを叫ぶ一方、同じ所を何回も掘り返している
道路工事を見ると、なんともやるせない気分になるのは
私だけだろうか???
2000年8月25日
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第24話 チャリティー
2008-11-15T20:41:45+09:00
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第25話 有名人
今、私があなたに
「日本を代表する陶芸家の名前を10人あげてください!」と
質問したら・・・はて、何人の名前をあげる事ができるでしょうか?
まあ、私のホームページを読みに来てくださっている方は
陶芸好きの人が多いと思うので、10人くらいの名前...
「日本を代表する陶芸家の名前を10人あげてください!」と
質問したら・・・はて、何人の名前をあげる事ができるでしょうか?
まあ、私のホームページを読みに来てくださっている方は
陶芸好きの人が多いと思うので、10人くらいの名前はすぐに出てくると
思われますが、それ以外の一般的な人々にこの質問をしても
10人の作家の名前は、すぐには出てこないだろうと予想されるが
いかがだろうか?
それ程に陶芸家として世の人々に名前を認知していただくのは
大変な事で、それは陶芸に限った事ではない。
「10人の日本画家をあげてください。」
「10人の彫刻家をあげてください。」
「10人の洋画家をあげてください。」
「10人の書道家をあげてください。」
「10人の建築家をあげてください。」
さて、あなたはどれだけ答える事ができただろうか?
いや、「知っていなくて何が悪い!」と言われればそれまでだけれども、
よく私のまわりの方々に
「早く有名になってくださいね!そうなれば買った作品の値段があがるでしょう!?」と
冗談半分に言われる事があるけれど、
有名人になると言う事は並大抵な事ではなれない。
色々な分野の日本を代表する人々の名前「TOP10」が
そう簡単には出てこないのである。陶芸界の売れっ子作家と言えども、
多くの一般の人々が知っているとは到底思えない。
それにひきかえ、メディア(TV、ラジオ、新聞、本、等)で
活躍されている方々は認知度が高い。加藤唐九郎を知らなくても久米宏は
知っているだろう!有名人とは誰もが知っている人の事をさすのだ。
「え〜?!加藤唐九郎を知らないの〜?陶芸界では有名だよ〜!」と
言ったところで、「へ〜、そうなんだ?でも私、陶芸には興味がないから
知らなくてもいいんだ!」
そうなのだ。有名人とはこちらが勉強して覚える名前ではなく、
何時の間にか知っている人の事なのだ。
先日、デパートで個展を開いたが、隣の画廊では「片岡鶴太郎展」を
やっていた。さすがに有名人である。買う、買わないは別にして人は
集まってくる。その流れで私の「陶芸」の個展も見ていただける結果と
なったが、「な〜んだ、鶴ちゃんじゃないんだ!」と言って
プイッと背を向かれると、ちょっぴりだけど寂しくなる。
別にひがんでいる訳ではない。無名の作家の個展と有名人の個展の差を
まざまざと見せつけられただけである。
特に私の場合、有名作家と同時開催の個展が多い。片岡鶴太郎しかり、
山下 清しかり、人間国宝の清水卯一しかりである。
有名人とのめぐり合わせはあるんだけどな〜!!
2000年9月5日
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第25話 有名人
2008-11-15T20:38:01+09:00
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第26話 天職
「いいですね〜、好きな事が仕事でうらやましいです!!」と
よく人に言われる。
用事で人に会う時も、個展会場でも、初めてうちの工房を訪ねてくれる人も、
示し合わせたように同じ風に言われる。
確かに陶芸は好きだし、それを仕事としている。
実に幸せ...
よく人に言われる。
用事で人に会う時も、個展会場でも、初めてうちの工房を訪ねてくれる人も、
示し合わせたように同じ風に言われる。
確かに陶芸は好きだし、それを仕事としている。
実に幸せであると思っている。稀に「天職ですね!」とも言われる。
しかしながら本当に陶芸家が天職であるかどうかはわからない。
人の命は限られていて、その間に職業を選んでいるわけで後戻りが
できない。だから1000の職種があれば、すべて体験してどれが
自分に1番合うかという具合にはいかないのである。
それと現時点で「陶芸家が天職だろうか?」と思ってしまうのには
理由がある。公募展に入選しグランプリに輝き、たくさんの賞を頂いてもなお、
「自分は陶芸家に向いていないんじゃないか?」と思う時が正直ある。
いわゆる、スランプである。この時期に突入すると最悪である。
アイデアにしても考えても、考えても、新しい斬新な発想が湧いてこない。
製作においても、なぜか失敗続きでむしろ寝てた方がまし状態の時がある。
何をやってもうまくいかず、土を見るのも触るのもいやになる。
「あ〜だめだ!向いてないな〜!」と愚痴をこぼしていまうのだ。
まあ、人間だから調子の良い時もあれば悪い時もあるから、
土を見るのがいやになったからと言って、陶芸を嫌いになった訳でもないし、
この職業を変えようと思った事もない。
(本当は他には何もできないから、変えられないのも事実だが)
しかしながら「天職」という言葉の響は私にとって重厚で威厳のある
言葉なのだ。だから「はい!陶芸は天職です!」と軽軽しく断言なんて
できない。言うだけなら簡単だけど・・
「天才」「才能」「才覚」等はある意味生まれ持った「才」の事で
努力したから得られる物では決してない。天職とはこの「才」によって
のみ、意味付けられる言葉なのだ。
「天職」だったかどうかは、これから先・・・
自分自身の努力と「才」による成果が結果に結び付いた時、
はじめて「天職」だったかどうか判断できると思っている。
「やっぱり陶芸が天職だった!!」と言える、そういう日が
くる事を心の底から望んでいる。
「転職しとけばよかった・・」なんてならぬように・・・
2000年9月15日
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第26話 天職
2008-11-15T20:33:33+09:00
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第27話 陶芸家の女房
もしも私が未婚の女性でこれから結婚するとしよう。
嫁ぎ先の職業が陶芸家なら「2,3日考えさせていただきます。」
と言って別の男を探すだろう!
それほどに陶芸家に嫁ぐのは余程の覚悟が必要だ。
理由はいたって簡単。かなりキツイからである。
体力的...
嫁ぎ先の職業が陶芸家なら「2,3日考えさせていただきます。」
と言って別の男を探すだろう!
それほどに陶芸家に嫁ぐのは余程の覚悟が必要だ。
理由はいたって簡単。かなりキツイからである。
体力的、時間的、経済的・・・数えればどんどん出てくる。
結婚した当初、私は妻に仕事を手伝ってもらうつもりはさらさらなく、
家事に専念してもらうつもりだった。それは自分自身、結婚するまで焼き物
をやっている家に生まれ、自分の母親を見て育ってきたからである。
家事と焼き物の手伝いというのは決して楽な環境とは思えなかった。
それがどっこい、今はバリバリに働いてもらってしまっている!
職業に貴賎の差は無いが、やはり都会のOLに比べれば、肉体労働が
多いし、化粧や良い服などは無縁の世界だ。それでいて高収入が得られる
訳でもなく、実際、現時点で私は妻に給料は払っていない。
つまりタダ働きである。・・・と言っても妻が手伝ってくれた事が
私の収入につながり、それで生計を立てている訳だから
まるきり「タダ」という訳ではないかも知れないが・・・・
陶芸家の妻の仕事は雑用に始まり、雑用に終る。
バケツを洗ったり、花瓶のシリコン塗り、作品リストの製作、
作品の寸法を計り木箱等の発注、コンピューターの中に作品画像を
整理したり・・・これらの雑用の集積は非常に大事な仕事で、
実のところ陶芸家の仕事の約3分の1程度はこうゆう雑用なのだ。
だから妻の助けなしでは正直私は陶芸家としてやって行けないと言って
過言ではない。
そして、この上に私の製作が遅れてくると妻に作陶の一部を
手伝ってもらうはめになるのだが、「ここが悪い、あそこが悪い!」と
私の説教を聞くはめになり、まあ一応に気の毒だ。
もうこうなったら、自分の運命が悪かったとあきらめてもらう
しかない。かわいそうだ!
この独り言を読んで下さっている独身女性に言いたい。
もし結婚するなら陶芸家はやめて、どこかのお金持ちとの結婚を勧めたい。
え?そんな事言われなくても分かっている?はい、失礼しました。
この独り言を読んで下さっている既婚女性に言いたい。
もっと女房を大事にしろって??
う〜、同じように私も大事にしてもらいたい〜。トホホホ
2000年10月5日
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第27話 陶芸家の女房
2008-11-15T20:31:14+09:00
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第28話 学校では教えてくれない事
陶芸を勉強したければ専門校や陶芸教室に行けば色々と
学ぶ事ができる。土の事、造形の事、釉薬の事、焼成の事
・・・基本的な知識や技術から専門的な事まで一応に学ぶ事ができる。
卒業する頃には、相当な陶芸の技術や知識を身につけていると
思われる。私...
学ぶ事ができる。土の事、造形の事、釉薬の事、焼成の事
・・・基本的な知識や技術から専門的な事まで一応に学ぶ事ができる。
卒業する頃には、相当な陶芸の技術や知識を身につけていると
思われる。私自身は陶芸の専門的な教育を受けなかったので、
陶芸の学校の内容はよくわからないが、友人に専門校を出た人がいるので
その人の話からだいたいの内容を知る事ができる。
しかしながら卒業生の全員が陶芸関係の仕事についているかと
いえば・・・そうではない。
理由はいろいろあるだろう。学校では教養の範囲で陶芸を勉強した人も
いるだろう。中には陶芸家になりたいのだが、窯を買ったり、
道具を買ったり、場所がなかったりの理由で、とりあえず他の仕事に
ついている人も多いと思う。
昔、「大学を出たけれど・・・」というフレーズがあったが、
「陶芸を学校で勉強したけれど・・・」というフレーズも悲しいかな
真実味を帯びている。
学校では教えてくれない事・・・しかしながら一番重要な事。
それは陶芸で生活して行く方法だ。
いくら知識や技術があってもそれだけでは生活して行けない。
その技術をいかして生活する方法、製作した作品等を売って生活する方法を
知っていないと先へは進めない。
もし陶芸家になりたいのに、やはり躊躇する人はやはりその事が
ネックになっていると思われる。
実は作品を作る事も確かに大変だけれども、もっと大変なのは
作った作品を売る事なのだ。どうやって作品を売るのか?
これは大問題である。
極端な話、この事の方が学校で教えてくれる事よりはるかに
重要であるし、学校で勉強した事もこの問題を解決しない限り、
効果を発揮しない。
私の場合この世界に入って15年ほどになるのだが、
始めは問屋さん相手にカタログの商品や一品商品などを作り、
それを買ってもらって生計を立てていた。
それも父が陶芸をやっていたのですんなり、陶芸の環境に入る事が
できたが、何もないところから窯や道具類を揃えるとなると実に大変で、
もし父がやっていなければたぶんこの世界には入らなかったと思う。
だから他の若い作家から「熊本君はボンボンだ!」
と言われたりもした。そうなのだ。何もない所から陶芸を志す人から
見ればあまりにも私は恵まれている。しかしながらそういう環境下でも
作品を売って生活して行くという事はまた別の話だ。
窯や道具類があったところで、作った作品が売れて行かなければ
ボンボンも何もないのである。
今、私は京都の業者(画商)さんとのお付き合いがあり、
色々な場所で個展活動を中心に活動させていただいている。
今の状況になるまでに15年の月日が流れた
人それぞれ生き方があり、それぞれの作品の売り方があるだろう。
しかし学校の授業の中に陶芸で生活してゆく方法を教える授業が
あってもよさそうだ。
なぜなら、この教えてくれない事こそ
一番大事で肝心な事なのだから・・・
2000年10月15日
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第28話 学校では 教えてくれない事
2008-11-15T20:29:18+09:00
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第29話 用途
陶芸作品には用途がついてまわるパターンが多い。
花器、食器、茶道具、等々。
その際、使いやすさや目的を重視されるケースが多い。
花器なら花の生けやすさ、食器なら食物をのせた時の事や収納、
口当たり、大きさ、重さ、などなどである。
確かに...
花器、食器、茶道具、等々。
その際、使いやすさや目的を重視されるケースが多い。
花器なら花の生けやすさ、食器なら食物をのせた時の事や収納、
口当たり、大きさ、重さ、などなどである。
確かに自分でも使いやすい食器などは使用頻度が多く
自然に手がのびる。陶芸で作品を作る時は決まってその事を意識はして
作っている。やはり使いやすいのは大事な事だ。
しかし、本音を言わせていただくと、意識しすぎるのもちょっと・・
という思いだ。
物事には色々な解釈や理論、考え方があるが、陶芸の場合消去法を
取られるケースが多い。たとえばここに食器があるとしよう。
まず重いのはだめ、重ねられないからだめ、色が派手すぎてだめ、・・・と
どんどん消去してゆくと、しまいには白い無地で軽くて重ねられる食器に
落ち付くような気がしてならない。
それこそ、その手の食器なら100円ショップや業務用食器屋さんで
簡単に手に入れる事ができる。
それはそれで良いと思う。
しかし、作家たるものがそれを作る必要があるのか?と考えた場合、
まあ、私個人の考え方としては必要がない!と断言する。
私は優秀な陶芸家ではない。
よく「お茶碗を作るにはお茶を勉強しなさい。」とか、
「花器を作るならお花を勉強しなさい。」とか
「食器を作るなら料理を勉強しなさい。」とか
「酒器を作るなら酒を飲みなさい。」とか
・・・聞けばもっともらしいけど、よくよく考えると
全然もっともではない。
もちろん知らないよりは知っている方が良いに決まっているが、
お茶もお花も料理も酒も・・・とそんなに一人の人間が出来るわけ
でもない。売春婦の小説を書くのにいちいち売春婦になっていたり、
政治家の小説を書くのにいちいち選挙に出馬なんてしないだろう。
どうもこのもっともらしい事をいう人が増えている。
このもっともらしい人に料理を盛らせるとやっぱりもっともらしくて
全然面白くないし、ドハデな器を出そうものなら対処の仕方が
わからないみたいだ。
昔、私の作ったド派手な器に見事に料理を盛った人がいた。
その人はお茶を習えだのお花を・・などとは口にしない。
肝心なのは最終的にはやはりセンスなのだ。
センスのある人はどんな食器にでもうまく盛るし、どんな花器にでも上
手く生ける。
用途はその器を使う人が決める事だ。
作家があれやこれや必要以上に用途にこだわり、平均的で模範的で
どこかで見たような没個性的な作品を作る事は私は避けたい。
・・・とまたこんな事を書くともっともらしい人から
もっともらしい説教をくらうはめになってしまうのかいな〜!!
やれやれ!
2000年10月25日
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第29話 用途
2008-11-15T20:27:03+09:00
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第30話 陶芸と音楽
作陶する時はいつでも音楽を聞きながらやっている。
ロックからポップス、JAZZ、クラシックまで演歌以外は何でも聞く。
ガンガン仕事をする時、たとえばロクロで数ものを作る時や、
釉掛けをたくさんする時などはロック調のテンポの早い音楽を聞き、
絵...
ロックからポップス、JAZZ、クラシックまで演歌以外は何でも聞く。
ガンガン仕事をする時、たとえばロクロで数ものを作る時や、
釉掛けをたくさんする時などはロック調のテンポの早い音楽を聞き、
絵付けや細工の細かい仕事の時などは静かめの音楽を聞きながら
作業をしている。
たまにラジオも聞くけれども、ほとんどFMである。
AMも良いのだが、朝から主婦の夫に対する下ネタや、人生相談などで
離婚や相続の話などが多くて、あまり聞いていて面白くないので
やはりラジオは音楽がよくかかるし音がきれいなFMを聞いている。
またFMはDJの人が外人だったりして、よく英語を駆使して番組を
構成しているので、知らないうちに英会話の勉強にもなる。
さて、音楽の話にもどるがやはり音楽はいい。
たくさん音符が連なっている曲もいいが、エリック・サティーみたいな
音の間(空白)をうまく聞かせているのもなかなかである。
いわゆる空白(空間)の美である。
どうしても物作りがやってしまう失敗の中に「やりすぎ」というのがある。
私もその一人である。どうしてもやりすぎてしまうのだ。
私は今、花器に雲の模様を書いた作品を作っているが、
たまに雲を多く書きすぎてしまって、「ちょっと、くどい!」と
言われる事もある。確かに自分でもそう思う時がある。
サティーのような空白の美が自分の作品の中に出てくれば良いのだが
・・・中々にむずかしい。
かと言って人間、サティーばかりでは面白くないので、ちょっと昔の
ハードロックもよく聞く。「KISS」や「DEEP PURPLE」など
である。(サティーとはえらい違いだ)
ガンガンとディストーションの効いたギターの音や深胴ドラムからの
ビートが効いたリズムは、とても良くてサティーの空白の美に対して
全く正反対の位置にあるが、こういうスピリットの陶芸作品も
また作ってみたくなる。
いわゆる、作品全部にこれ見よがしの仕事がしてある作品などである。
こういう仕事は得てして日本人には非常にウケが悪い。
しかし、あまのじゃくな私は嫌われているものもあえてやってみたくなる、
いや嫌われているからこそやりたくなるのである。(相当、変人だ)
「どうだ!!こんなガンガンにロックしている器!!」
「お前に使いこなせれるかな?!ベイビー!!」
案の定、そういうロックな器は個展会場では批判の的になり・・・
まあ、自分としては目的達成!!なのだが、その目的を達成すれば
するほど、売上の目標は達成できない。まさにアホである。
私は音楽で時には心を躍らせ、時には心静かに作陶している。
音楽のように、私の作品で人の心が動かせればと願いつつ・・・・
2000年11月6日
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第30話 陶芸と音楽
2008-11-15T20:23:41+09:00
hitorigotoeij
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第31話 賞金
皆さんは「賞金」というものを手にした事があるだろうか?
たとえその額が100円だってかまわない。
「賞金」を手にした事がある人は、いや「賞金」を手に入れていない人
でも、もらえると嬉しい!という事はわかっていただけると思う。
今まで私が...
たとえその額が100円だってかまわない。
「賞金」を手にした事がある人は、いや「賞金」を手に入れていない人
でも、もらえると嬉しい!という事はわかっていただけると思う。
今まで私が手にした「賞金」の最高金額は100万円である。
次に50万円、30万円、20万円、15万円、10万円、
後は7万円、5万円、3万円、2万円、1万円、である。
さすがに賞金100万円は大金だ。
・・・と言っても実際の手取り金額は95万円である。
なぜ95万円かと言うと、賞金には税がかかるのだ。
50万円までは無税なのだが(詳しい事はわからんが)、
50万円を超えてからその10%の税金がかかる。
つまり50−5=45。50+45で95万円!
なんと私は5万円も税金を払ったのだ。
(その5万円はどのように使われたのだろうか?
まさか長銀の破綻の埋め合わせに使われたんじゃないだろうな〜?)
作家にとって賞金とは特別な意味がある。
つまり何かを売って得たお金ではないのだ。作品を売ってでしか収入の術を
知らないのに、作品を売らずしてお金が入ってくるのだ。
ボーナスとは無縁の私にはボーナスそのモノなのだ。
「賞金」はだいたい公募展でいただいた。
確かに賞金をもらうのは大変な事なのだが、宝くじやロトくじを
買うよりもはるかに確率がいい。
特に、「万古焼総合コンペ」という地元の公募展があるのだが、
応募資格は三重県北勢地方に在住の人に限られる。
賞も多く、賞金もつく。出品料も無料である。これに出品しない手はない!
取り合えず何でもいいから出品する。(まあ、出品する時はそれなりに、
ない頭を使って作品を作るが・・)
・・・とここまで書いてくると、
「賞が欲しいのか?賞金が欲しいのか?」と言われそうだが、
正直言って両方欲しい。しかし賞金が公募展出品への動機になるのは
間違いないし、それは決して不純な動機ではないと思っている。
はっきり言って「万古焼総合コンペ」も賞金がつかなければ、
さらさら出品する気はない。(爆)
作家は基本的には(1部の売れっ子作家を除いて)貧乏だ。
公募展でもらう賞金の多くは生活費にまわされても不思議ではない。
朝日陶芸展の表彰式に出席した時の事、あの加藤清之さんが
「若い頃、朝日陶芸展で取った賞金に救われた」と言われていたが、
痛いほどお気持ちが理解できた。正直、私もかなり賞金には
助けられている。
賞金目当てで公募展に出品するのも結構だと思う。
それによって公募展そのもののレベルが上がれば主催者もバンバンザイの
はずである。世の中金で解決できない事も多いが、金によって
良い方向に向かう事も多い。
しかし・・・・私が今までに頂いた賞金はいったい何処へ
消えてしまったのだろう?全然手元に残っていない。
不思議だ!実に摩訶不思議だ!
追記 そう言えば、賞金もらった夜はステーキ友人に
おごったりしていたな〜!手元に残らないわけだ。
2000年11月15日
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第31話 賞金
2008-11-15T20:22:06+09:00
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第32話 また、やってしまった!!!
「人は生きている限り、過ちを犯す!」
・・・誰だったか忘れたけど偉い人のお言葉です。
まったくもってその通りで、しかも何度となく繰り返すのは
同じ過ちや失敗なのである。
お酒を飲みすぎて,次の日が大変な事になるとわかっていながら、
つい...
・・・誰だったか忘れたけど偉い人のお言葉です。
まったくもってその通りで、しかも何度となく繰り返すのは
同じ過ちや失敗なのである。
お酒を飲みすぎて,次の日が大変な事になるとわかっていながら、
つい調子にのって飲み過ぎてしまう。次の日の朝には
「もう、こんなバカな事はやめよう!」と思いながらも、
時が経つとその決意は忘却の彼方へと・・・
そしてまた同じ事を繰り返すのである。
私はパチンコも好きでたまにやるが、「負け」のパターンがあって
調子が悪い時はいくらがんばっても出ないのである。
そういう時は中断して家路につくのが正解なのだが、つい熱くなって
気がつけば財布の中はからっぽになっている。典型的なバカだ。
洋服を買いに行く時もそうだ。前回、自分には似合わなくて、
買ったけれども一度も着ていない服があるのだが、
なぜかまた同じような似た服を買いこんでしまい・・・
まったく学習という事を私は知らないのである。
日常生活がこのような状態なので、当然仕事上でも似たような
失敗を繰り返している。
一番多い失敗は「あせり」から来るものである。
時間がないので土の状態が次の行程に進める状態ではないのに、
あせって次に進んでしまって、結局は失敗して余計に時間がなくなる。
だからもっと焦る!もっと焦ってやるのでもっとダメになる。
毎回そうなのだ。
よく女房に「少しは落ち付いて!」と言われる。
「そんな事くらい、わかっているっ!」と言っている自分が実は一番
わかってないのである。まあ、それだけ懸命に仕事をしていると
言ってしまえばそれまでだが、陶芸の失敗も決って同じ事をしでかす
のである。
たとえばロクロ仕事を始める前に、まずは道具をきちんと並べてから
仕事を始めれば良いのに、短気な私は土をロクロの上に据えると、
何も考えずにロクロを回し始めるのである。
「あれ?コテがない!」「あれ?トンボがない!」「あれ?しっぴきがない!」
「あれ?スポンジがない!」「あれ?タオルがない!」
・・・毎回同じ失敗。はっきり言って小学生より劣る。
それと製作中に電話が鳴ると、電話機の所へ行くのに必ず道具を
握りしめて行ってしまうのである。たとえば針を使っていたとしたら、
針を持ったまま受話器を取りに行くのである。そして針を電話機のところに
置いてきてしまうのである。
「あれ?針がない!」・・・ないはずである。(爆)
また、やってしまった!!
たぶん、同じ失敗を繰り返すのは、なにも私だけではないと思う。
みんな、似たような経験はあるとは思うが、最近の私は特にダメだ。
もういい加減いい大人なのだから、前回の失敗を繰り返さないように、
日々注意しなければいけない!
「またやってしまった!!」と言わないように!!
しかし・・・わかっちゃいるけどやめられない!
♪スースースーダラタッタ、スラスラスイスイスイーー♪
2000年11月27日
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第32話 また、 やってしまった!!!
2008-11-15T20:19:47+09:00
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第33話 発想
最近、発想するという行為
・・・つまり新しいアイデアやデザインが浮かんでこない。
これは作家にとっては致命的と言える。
もちろんアホな頭をそれなりに回転させてがんばっているのだが、
昔ほど良い発想が生まれて来ない。
理由は色々とあるだろ...
・・・つまり新しいアイデアやデザインが浮かんでこない。
これは作家にとっては致命的と言える。
もちろんアホな頭をそれなりに回転させてがんばっているのだが、
昔ほど良い発想が生まれて来ない。
理由は色々とあるだろうけど、一番の原因は陶芸を長くやってきて、
毎日土を触ったり、絵付けをしたりしてきたからだ!
普通は長くやってきたのだから良い方向に向かうはずなのだが・・・
時に逆もありえる。
公募展出品のための大きな作品などは、まず頭の中で形や色を
イメージするのだが、困ったことに完成までのプロセスを全て頭の中だけで
まず、やってしまう癖がついてしまった。
つまり頭の中で成形し、乾燥、釉掛け、焼成をしてしまう。
ある形状の作品はすでに私の頭の中で成形の段階で崩れてきてしまう。
仮に成形の段階をクリアしたとしても次の乾燥段階で割れてきてしまう
のである。長年作品を焼き続けていると、無理な形状等は経験によって
だいたい解かってくる。
実際に焼成してみると、「たぶんここに無理な重力がかかり、
割れてくるだろう。」と思った所がほぼ高い確率で割れてくる。
逆に頭の中で無事焼成できた物はだいたいうまく焼き上がってくる。
これは正に経験がなせる事であるのだが、逆にこの「読み」が新しい
斬新な発想を妨げ、自由でのびのびした作品を作れなくしている。
つまり安全な方へと逃げているのだ。
はじめから失敗するに決っている作品を作ろうとは、やはり思えない。
やはり勝算あっての挑戦にしたい。この場合の勝算とは無事焼きあがって
くるという事である。しかし、無事に焼き上げる事に目先が行ってて、
なにかしら無事焼きあがってもやはり、勢いや斬新さにかける作品が
出てくる。かと言って大きく割れて出てくれば、公募展にも個展にも
作品は並べる事はできない。
「がんばったんだから・・」と製作風景の写真を作品の代わりに
出品できるはずもない。評価は出来た作品のみによって評価を受ける。
当然である。結果が全てなのだ。
スランプという言葉があるが、今の私はまさしくそれかも知れない。
しかしスランプはいつまでも続かないのである。確かにいつスランプを
抜け出るか?はわからないが、一度、突破口を見付けると今までにない発想
がしばらくの間ではあるが(苦笑)出てくる。そういう年は公募展でも
良い結果が続くが、そうでない年は落選続きという事になる。
おまけにパチンコまで負け続ける始末である。
良い発想を得るには色々な方法があるだろう。一度、立ち止まって
色々な分野の事に触れてみるとか、しばらく何もしないとか・・
逆にこれでもかと土に向かって行くか???どちらにしても、
凝り固まった固定観念を何処かに発送し、新しい発想を手に入れたい!
(う〜ん、駄洒落までスランプじゃ〜)
2000年12月5日
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第33話 発想
2008-11-15T20:17:47+09:00
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第34話 決めセリフ
数多くの個展を開いているうちに、ある法則というか決った言葉や
セリフのやりとりに遭遇する機会が多くなる。今回の独り言は、
そういった事のいくつかを紹介する事にする。
其の一、「また来ます!」・・・・このフレーズの意味は
もう来ないという事。個...
セリフのやりとりに遭遇する機会が多くなる。今回の独り言は、
そういった事のいくつかを紹介する事にする。
其の一、「また来ます!」・・・・このフレーズの意味は
もう来ないという事。個展会場を一巡し、色々と話をさせていただき、
出口あたりにさしかかると「また来ますね!」と言って
画廊を出て行かれるが、ほとんどの場合これは「もう来ない」と
いう意味でとらえて間違いない。
これに似た言葉で「会期はいつまでですか?」
「何曜日までやっているんですか?」もまた同意語。
でも本当に再来してくれたお客様は作品を購入してくださる可能性は
極めて高い。
其のニ、「人間国宝の作品を持っています!」
・・・・これもよく会場で聞く言葉。
全国でこれほどまでに人間国宝の作品を持っておられる方が多いとは
驚きである。この場合、私の作品の話というより終始その人間国宝の方の
作品の話で終る。
「早く、美術年鑑に載っている作家になってくださいね」
とも、よく言われるが、すでに載っているので返事にも困る。
この場合、相手を立てて
「はい、がんばります!」と答えるようにしている。
其の三、「この作品が欲しいけど、まず家を立て直さないと!」
・・・・このフレーズは本当に多い!嬉しい反面、悲しいお言葉である。
其の四、「これは何焼ですか?」
・・・・これもBEST3に入る質問。
以前の「独り言」に書いたけれども、非常に返答に困る質問のうちのひとつ。
結局最後には「自分焼です」というセリフで一件落着!
其の五、「これはどうやって作るのですか?」
・・・・この質問をされる方は高い確率で陶芸を実際に製作された
経験をお持ちの方か、現在、陶芸教室に行かれている方の質問。
私は技法を隠すつもりはないので、全部お答えいたします。
どうぞ、お気軽にどうぞ!
其の六、「先週、高い物を買った!」
・・・・これも思わず笑ってしまうフレーズ。
あまりにも先週に高い物を買った人が多いのですから・・・
其の七、「そ〜言えば、この作品、どこかの本で見た!」
・・・・とても嬉しいお言葉なのだが、実際に私の作品はほとんど雑誌等に
は紹介されていない。
「ありがとうございます、最近あちこちで載っているという話を聞きます」と答えてしまう。
「いえ!載っていません!」と答えるとお客様のプライドを傷つけかねない。
地方紙の小雑誌でも載った事には変わりないので、そのように答えるようにしている。
其の八、「将来、値が上がるかも知れないね!」
・・・・そうおっしゃる方の多くは、値が上がる前には購入されない。(爆)
私の作品を購入されるお客様は投資目的の人はほとんどなく、
実際に使われる為に購入されるのが実情だ。
「値が上がる」という意味は「有名になる」とまったくの同意語。
将来有名になるかも知れない?けど保障がないので見送り!!というケース。
・・・・とまあ、まだまだ「決めセリフ」というのは存在するが、
今回はこれまで。
これを私は決して悪い意味にはとっていない。
私も平凡な小市民なのだから、お客様の気持ちは理解できるし、
私とて何かを断る時に「また、今度ね!」と言って断る事もよくある。
(今度はないのに・・)
たぶん、これからもたくさんの個展会場でこの「決めセリフ」を
聞く事となるだろう。
2000年12月16日
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第34話 決めセリフ
2008-11-15T20:15:02+09:00
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第35話 どこまでが自分の作品?
先日、2000年、12月22日付けの毎日新聞朝刊の紙上にて
「山梨の陶芸家、他人に焼き上げ依頼、県芸術祭入選、取り消しも」と
いう記事が載っていた。
内容としては作品は自分で作ったのだが、焼き上げを備前の作家に
依頼、自分作として出品したとの事である...
「山梨の陶芸家、他人に焼き上げ依頼、県芸術祭入選、取り消しも」と
いう記事が載っていた。
内容としては作品は自分で作ったのだが、焼き上げを備前の作家に
依頼、自分作として出品したとの事である。それに対して、
「岡山県備前焼陶友会」のY氏は
「作家は自分で窯を持ち、自分で土をこねて、自分で焼くもの。
ほかで焼いたときはそう明示すべきだ」と指摘。
また山梨県生涯学習課のT氏は
「作品を売る陶芸作家は、すべて自分で作業することが前提であり、
疑わなかった」と説明している。
それに対して今回、問題のN氏は
「備前焼は自分の窯では焼けず、焼いてもらっても問題ないと思った」
また「よそで焼いてもらっては、純然たる自分の作品とは言えない」
・・とも言っている。
この記事を読んで、正直、私はビックリしたのである。
どうビックリしたか?これが作家の姿勢を決める大きな要因となるので
あろうが、私の考え方は「そんなに、気にする事なのかな〜?」である。
窯が経済的に持てない人達は共同窯なんかで、焼いている人も
大勢いるし、公民館等で作品を焼いている人もいる。
陶芸教室に通いながら作品を作り、そこの教室の先生が窯を焚き
その出来あがった作品を、公募展や作品展に出品している人は
かなり日本中にいると思われるのだが、いかがなもんだろうか?
確かに、「焼き」というのは陶芸作品の中では重要な部分にあたる。
焼き方によって確かに大きく作品の様相は変わってくる。しかしながら、
他人に焼いてもらったからその作品は自分の作品ではないか?と言えば
まるっきりそうとも言えないのではないか?と私の独断と偏見での意見だ。
こういう問題は作家のスタンスや考え方、ポリシー、主義によって
大きく変わってくる。
「土も当然、自分で掘ってこなけらばいけない!」
「釉薬も当然、自分で調合しなければいけない!」
「焼きも自分で焼かなければいけない!」
・・・確かにこだわって物を作るのだが、それは個人でのレベルの問題だ。
土も自分で掘り、釉薬も自分で作り、窯で焼く。
そう思っている人はそのように好き勝手やればいい。
だが、「自分で土を掘りに行ってないから作家ではない。」
「自分で釉薬を作ってないのは作家として半人前だ」・・と
いう意見はやはり、おかしいと思ってしまう。
それは個人の考え方であり人に強制するものではない。
前にも書いたが、陶芸は自分一人ではできない芸術なのだ。
土だって自分で掘ってはこれるが、土自体を作る事はできない。
釉薬もしかり。窯だって自分で作らなければいけなくなるし、
仮に作ったとしても、レンガはまで自分で作る事はまずないだろう!
火だって自分が操作しているように、感じるが半分は神の領域だと
私は思っている。
話は少しそれてしまったが、今回の問題にしても窯焚きの時に
その場にいて、1束でも薪を投げ込めば自分で焼いた事になるのか?
半分投げ込めば良いのか?はたまた全部、投げ込まないと
自分で作品を焼いたという事いならないのか?
・・・このあたり実に曖昧だ。
たとえば、その備前焼の作家の土地を買い取り、その陶芸家を雇って、
自分の指示で焼かせたとしたら・・その場合はどうなるのであろうか?
同じ行為にしても意味合いは大きく違ってくる。
私は今回の事は出品者の考え方が1番重要であるべきだと思っている。
1から10まで全部自分でやらなければ気がすまない人は始めから、
焼成を依頼するという事もないだろう。今回は作品自体は自分で作ったと
言われているんだから、あとは自分が「ここまでなら自分の作品だ」と
いう価値判断をしっかり持つべきであろう。
しかし、どこまでが自分の作品という定義は実に難しい。たしか、
かの魯山人も職人さんが作った器に絵を書いたのがあったような、
なかったような???
2000年12月25日
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第35話 どこまでが 自分の作品?
2008-11-15T20:11:31+09:00
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第36話 岡本太郎
私の好きな芸術家の一人に岡本太郎がいる。
彼の作品も好きだが、むしろ彼の行動や発言に共感を覚えるのである。
何にも媚びずに自分の意志を貫く。他人がなんと言おうと
自分の世界を展開し自由で奔放、それでいて繊細だ。
私はと言えば岡本太郎の生...
彼の作品も好きだが、むしろ彼の行動や発言に共感を覚えるのである。
何にも媚びずに自分の意志を貫く。他人がなんと言おうと
自分の世界を展開し自由で奔放、それでいて繊細だ。
私はと言えば岡本太郎の生き方や考え方に共感すれども、
なかなか実行には移せない、内気な小市民である。
それが故に彼みたいな人に強く憧れるのであろうか?
岡本太郎の本を私は何冊か持っていて、それを読む度に彼の
スケールの大きさにド肝を抜かれるのである。
昔、コマーシャルでの「芸術は爆発だ!」というフレーズは有名だが、
私はもうひとつの「グラスの底に顔があってもいいじゃないか!」の方が
好きである。そうなのだ!今まではグラスの底に顔は無いのだ。
いや、あってはいけない風潮が日本にはあった。
それは陶芸界も同じ事が言える。
もしも「抹茶碗の底に顔があってもいいじゃないか!」と置きかえると、
私自身これほど痛快なメッセージは他にない。
お茶を飲み終えたら顔が出てくる!抹茶の緑色がついている顔は
イタズラ小僧がどろんこ遊びを終えてきたばかりのようで、面白い。
顔も怒った顔や笑った顔、ひょっとこ、おかめ・・・
そんなのもあっても面白い。
芸術(陶芸やお茶、お花も含め)とは「あれもダメ、これもダメ」の
世界ではなく「あれも良し、これも良し」の世界のはずだ。
岡本太郎は説教くさく我々に言っていない。強制的ではなく
「顔があってもいいじゃないか!」とメッセージに載せて言っている。
そこがかろやかにて、スマートで好感が持てる。
陶芸の世界に長くいると「こうでなくてはならない」的、説教的な
発言をよく耳にする。その発言者は私の経験では茶道関係の方が多かった。
もちろんすべてがそうではないが、多かったのは事実なのだ。
いったい茶道を通して何を勉強されているのか?と疑問を持たざるを
得ない。もともと茶道とは自由な精神世界を追求する芸術ではないのか?
まるで「なんでも鑑定団」の養成機関かと思ってしまう。
岡本太郎も茶席で茶人と喧嘩したエピソードがあるが、気持ちはすごく
理解できる。岡本太郎はバリバリのオブジェや絵画を書いているが、
決して伝統を否定する人ではなかった。真に伝統を残してゆく人々は
むしろ、前衛的な人だと私は思っている。
私は岡本太郎という芸術家と一度会ってみたかった。そして私が
持っている疑問や意見を色々と聞いて欲しかった。
彼の意見も聞きたかった。
・・・・それは叶わぬ私の勝手な願望であるが・・・
2001年1月8日
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第36話 岡本太郎
2008-11-15T20:07:15+09:00
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第37話 プロとアマ
実のところ、陶芸の場合プロとアマの境界線はわからない。
強いて言えば、陶芸で食べているか、いないか?という事で
区別できるのかも知れないが、大学の教授などをしながらの
プロと呼ばれている人もいるし、やはり定義はできない。
プロと呼ばれて...
強いて言えば、陶芸で食べているか、いないか?という事で
区別できるのかも知れないが、大学の教授などをしながらの
プロと呼ばれている人もいるし、やはり定義はできない。
プロと呼ばれている作家でも技術的に未熟な人(私のように)も
いるし、アマと呼ばれている人の中にも、技術的や知識的に
すごい人もいる。
陶芸の場合、プロ試験というのも存在しないし、
免許も資格も必要ない。自称の世界だからプロ・アマの境は本当に難しい。
ただひとつ言える事はプロと呼ばれている人は決して
他人のマネはできないという事くらいか・・・?
確かに他人の影響を受ける事はあるが、マネ、模倣というのは
プロの世界ではまったく意味のない事なのだ。逆に人の作品ではなく
自分独自の作品を追求しているから、プロと呼ばれるのかもわからないが・・
ただ昔の作品の写しを専門にやっている人もいるが、それは例外である。
プロとは自分独自の作品を生み出す事を本業としている人の事かも知れない。
では、アマと呼ばれている人はどうかと言うと、マネ、模倣が
OKなのだ。逆にそれらの行為を行っている間はアマと呼ばれている人と
言える。
先日、「アマチュア陶芸展」なる催しを見てきたが「アマ」と
唱っている以上、「マネ、模倣がOKです」と言っている展覧会だ。
当然、昨日、今日始めた人からかなりのキャリアを積んだ人までいた。
しかしながら「アマ」と看板を出している以上、はじめから素人が
作りましたと言っているのと同じ事だ。
「アマチュアなんだから、これくらいは下手でも大目に見てね、
プロじゃないんだから・・」という感じは否めない。
でも会場で仮に「これはアマの作品だな〜!」なんて言うと、
たぶんイヤな顔をされるだろうな?皆さん、やはり自分の作品はかわいい。
「プロの作品みたいですね」と言われた方が嬉しいに決っている。
「アマチュア陶芸展」という名前より「○○教室陶芸展」とか
「○○窯展」という名前にした方が出品者の意識も向上すると
思われるがいかがなものだろか?
昨今、「アマチュア対象の公募展」なる企画があるが、
はっきり言って主旨がよくわからない。
プロ・アマの定義がはっきりしていない以上、何を基準にアマであると
言いきれるのか?アマの世界の入賞・入選とはいかなる基準なのか?
まさか、いかにも下手くそで素人っぽい作品がグランプリに
なるのだろうか?
話は最初に戻るが、土を握って焼成すれば、本当はプロもアマも
ないのである。同じ土俵の上にいるのである。全国的な陶芸公募展だって、
プロだから入選、アマだから選外という事はないはずだ。
プロと呼ばれている人でも選外になるし、アマと呼ばれている人でも
入賞する。プロもアマもない、あるのは作品だけなのだ。
物を作り出す以上、うまく作りたいと思うのは当たり前の事だと思う
が、初めからアマだからと、ひとくくりにする姿勢はあまり好きではない。
私の今の立場はうまく定義できないが、プロであるという心意気を
持っている以上、下手くそでもプロであると思っている。
逆にすごい技を持っていても、自分はアマと思っている限り、
決してアマと呼ばれている領域から抜け出る事はできない。
2001年1月20日
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第37話 プロとアマ
2008-11-15T20:04:03+09:00
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第38話 UFO(物理の法則)
私は昔、UFOや幽霊の存在を信じていた。
遠い宇宙の彼方の高度な文明の星からUFOに乗って地球を訪れても
全く不思議ではないと思っていたし、死んだ人の思いが霊魂となって
空中?に浮遊しているんだと、思っていた。
しかしながら最近、私はUFOや...
遠い宇宙の彼方の高度な文明の星からUFOに乗って地球を訪れても
全く不思議ではないと思っていたし、死んだ人の思いが霊魂となって
空中?に浮遊しているんだと、思っていた。
しかしながら最近、私はUFOや幽霊の存在を信じなくなって
しまった。まあ、オジサンになってしまって、そういう空想的な夢を
持たなくなったと言う事もあるだろうが・・・
1番の信じなくなった原因はアインシュタインの「相対性理論」を
知ってからだ。
もちろん、その理論を理解できる頭は持っていないが、
「理論上、光の速度は超えられない」という事は理解できた。
現在、生命体がいると思われる星までの距離は
何千、何万光年もかかると言われている。つまり、仮に光速で移動しても
地球にたどりつくまで生きていられるかどうか?という事だ。
(まあ、鶴は千年、亀は万年というから鶴亀星人だったら可能かも
知れないが・・・)
つまり、物や生命体は時の流れに対して限界があるという事だ。
時間は永遠に流れ続けるが、物や生き物は時間と共に古くなる。
陶芸の場合、土をそのまま放置しておくと、だんだんと黒く
なってくる。これは空気中の酸素と土の中の鉄分が反応して、
いわゆる錆びてくるわけで常温にて焼成されているという事なのだ。
つまり化学変化を起して古くなっているという事なのだ。
食器などでも、毎回使っていると古くなる。私の器は
金彩・赤絵付けが剥がれにくいように工夫はしてあるが、
それでも物が持っている特性や性質など物理的な事は誰の手にも
変えられない。
よくお客さんから「金彩は落ちませんか?」という質問をお受けする
が、「いつかは剥がれます」とお答えしているし、
「金彩はレンジはダメですか?」とも聞かれるが、やはりヒカリモノに
マイクロ波をあてるとパチパチするという物理の法則は変えられないので
「それは仕方のない事ですね」とお答えしている。
私はUFOが地球に耐久性(宇宙船と乗組員)の問題で
たどりつけない事と同じ次元で、物は古くなるという事実を
再確認してしまった。今の所私は、宇宙は物理の法則の上に
すべてなりたっている現象であると思っている。しかし、ここまで
断言してしまうと「全ての事は科学では実証できない」という方から
クレームがつくんだろうな〜??別に神や仏や礼拝なんかを
否定している訳ではないんだけど・・・
しかし、UFOや幽霊にお目にかかれるものなら、ぜひ一度
お目にかかりたいものだ。
そうしたら、次の独り言は180度正反対の事を書く事をここに誓います!!
2001年1月25日
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第38話 UFO (物理の法則)
2008-11-15T20:01:16+09:00
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第39話 煙草
今現在、私は愛煙家だ。今現在という言葉を使ったのには訳がある。
いわゆる吸ってない時期もあったからだ。
学生時代はカッコつけのために吸っていたが、たかだか一日5本くらい
なので吸っているうちには、入らなかった。(映画カサブランカのボギーの影響...
いわゆる吸ってない時期もあったからだ。
学生時代はカッコつけのために吸っていたが、たかだか一日5本くらい
なので吸っているうちには、入らなかった。(映画カサブランカのボギーの影響大)
23才の頃、ある病気をして長期入院をした事があり、それを機会に煙草
は数年間やめていた。
作陶生活を続けている間、やはり新しい技法やアイデア等を
生み出すのは、やはりそれなりに神経を使う。もちろん新作だけの悩みなら
まだしも、やはり生活というものもある。始めから陶芸家として
楽に生きていけるはずもなく(今もだが・・・)、ちょっと精神的に
まいった時期があり、精神的からくる特有の病気(・・と言っても
大袈裟な事ではないが)にもかかるようになってしまった。
その時、昔、煙草をふかしながら、ぼんやりと空を見上げていた頃の
記憶がよみがえり、つい煙草に火をつけてしまった。それが現在では
1日1箱ペースで吸ってしまっている。
やはり仕事の合間の休憩時の煙草は非常に気分転換になる。
煙草の中にニコチンやタールの影響かも知れないが、とりあえず煙草の火が
消えるまでの3,4分はブレイクできる。お陰様で精神的からくる
体の不調はほとんどなくなってしまった。
私は38年間生きてきて一番体に悪いのはストレスだと思った。
しかし、ストレスのない人生というのも、またありえない。いかにストレス
を減らすかが問題となる。
「今日も元気だ!煙草がうまい!」というキャッチコピーが2昔前に
あったけれど、まさしくその通りだと思っている。体調が悪い時には煙草は
確かにうまくない。
私は煙草を人に推進するつもりはまったくない。まったくないがやめろ
とも言われたくない。煙草を吸ってはいけない場所では吸わない。
ポイ捨てはやらない。人に迷惑にならないようにする。
それだけ守っていれば、煙草もまた人生を楽しくする嗜好品だと
思っている。
ヘルシーブームや禁煙活動により、煙草を吸う人は年々減少し、
今や喫煙者は犯罪者扱いだ。う〜ん、皆さんすごい!健康管理!
しかしゆき過ぎる健康への気配りもどうかな?なんて思ってしまう。
お昼の「みのもんた」の番組なんかを見ていると、何が体に良くて
何が悪いか?さっぱりわからなくなってくる。ビタミンはA〜Z?まで
全部満遍なく取らなければいけないみたいだし、これが白血球に良いとか、
これは脳細胞を活発にするとか、この成分は1日に何ミリグラム
摂取した方が良いとか、お風呂の温度は何度で何分間ゆぶねに
入っていなければならないか?とか・・・その事を考えるだけでも
頭が痛くなってくる!
しかし、健康食品や健康ドリンクだと声高らかに言っている人ほど
ポックリ逝くケースもめずらしくない。あまり健康に対して考え込むと
そのストレスで逝っちゃいますよ!
ストレスが1番の病気の元なんですから!
何事もほどほどに!酒も煙草もね! プカプカ!
2001年2月16日
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第39話 煙草
2008-11-15T19:58:48+09:00
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第40話 売れ筋
私のような作品でも不思議と「売れ筋」というのがある。
形、デザイン、色、価格の関係であろうか?
いわゆる「定番」みたいな作品が存在する。
それとは逆に絶対に売れていかない作品もある。
それは作家が気に入っている作品であってもだ。
だからと言っ...
形、デザイン、色、価格の関係であろうか?
いわゆる「定番」みたいな作品が存在する。
それとは逆に絶対に売れていかない作品もある。
それは作家が気に入っている作品であってもだ。
だからと言ってその「売れ筋」ばかり並べても
やはり個展は面白くない。
やはりその事とは別に、自分の色々な作品も並べたい。
(売れ筋の作品が自分の作りたいものではないという訳ではない)
・・・しかし、自分の自信作というのは、得てして評判が良いとは
限らない。いや、むしろ「今回の個展の一押し作品」というのは
最後まで売れ残る場合が多い。
逆に自分の中ではあまり高得点をあげられない・・・と
思っている作品が売れていくというケースもめずらしくない。
(高得点をあげられないというのは、自分の1番のお気に入り作品と比較しての事)
そこにお客さんと作家との間に、大きな価値基準や美意識の違いが
ある事を痛感するが、十人十色であるのだから、それはそれで良い。
どちらが正しいという問題ではない。しかしながら、
「どうして、この作品の良さを理解してくれないのだろう?」と
一人よがりの考えが浮かんでしまう事も正直にここに記そう。
なぜか、我を忘れて没頭した作品ほどこういう憂き目にあう事が多い。
あの有名なユーミンでさえも、自分の世界に没頭しすぎて、
作った曲をダンナ様に聞いてもらうと
「これは自分の世界に入りすぎていて、他の人には理解してもらえない」と
言う事でアドバイスを受け、リメイクする事もしばしばあると聞く。
この気持ちはすごくよく理解できる。
作品でも「これはいい!」と思って製作しても、ウケが悪い時がある。
「以前の作品の方がよかった!」とか言われてしまう時もあるが、
稀に「これは良いね〜!」なんて言って買ってくださるお客さん、
いや、買っていただかなくても沢山の作品が並んでいる個展会場にて
「一押し作品」に一票を投じてくださる人がいると、本当に嬉しくなる。
売れ筋の作品とは、多くの人が理解できうる、また評価してもらえる
作品という事になるのであろうか?それはまた別の意味で捉えると、
一般的常識内、大多数の美的感覚内、安心、異端でない・・・等の作品と
いう事なのだろうか?
正直、今回の「独り言」は答えが出ない。
売れる作品とは何なのか?売れていかない作品とは何なのか?
売れる事ばかり考えて作品を作るのか?売れていかなくても、
自分勝手な作品を作り続けるべきなのか?売れ筋を大事に守ってゆくのか?
売れ筋を放棄してまでも、また新しい事に挑戦するのか?
「作家は売れてなんぼ」だと思っている。売れなければ、
評価を受ける事もない。その点、私は爆発的に売れる作家でもないし、
有名でもないから作家としては半人前だろう。黙っていて何でも売れていく
作家ではない私の取るべき方向はどちらに向いているのだろう?
売れ筋とそうでない作品たち・・・・時々迷路に迷い込む。
2001年2月26日
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第40話 売れ筋
2008-11-15T19:30:04+09:00
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第41話 コーヒーと器
まさか生まれて一度もコーヒーを飲んだ事がない人はいないだろう。
あの香ばしい香りのする飲み物は、しばしのリラックス感を
我々に与えてくれる。
休憩時間の事を「コーヒーブレイク」と呼ぶくらいなのだから。
ちなみにコーヒーを日本語にすると、「南米...
あの香ばしい香りのする飲み物は、しばしのリラックス感を
我々に与えてくれる。
休憩時間の事を「コーヒーブレイク」と呼ぶくらいなのだから。
ちなみにコーヒーを日本語にすると、「南米産豆出し汁」と
いうそうだが、これは南米産のコーヒーが多いからだろう。
ブラジル、コロンビア、イエメン、ジャマイカ・・・等々産地は結構
色々な所にある。おまけだがTVは日本語で「箱型電波受像機」である。
話がいきなり脱線してしまったが、そのコーヒーにかかせないのが、
コーヒーカップ。厳密にはコーヒー碗皿である。マグカップやフ
リーカップ、はたまた紙コップで飲む場合もあるが、
普通はカップとソーサーが対になったコーヒー碗皿で飲む。
このコーヒー碗皿は陶芸家の作るアイテムの代表格だ。
だいたい日本人がコーヒー碗皿を選ぶ場合、地味な土味のある器を
選ぶ傾向がある。しかしまた、ウエッジウッドやマイセンの磁器物の器も
人気がある。
しかしながら私の作るコーヒー碗皿は、まあ、見事に派手である。
金・ピンク・赤・緑・青・オレンジ等々いろんな色を駆使して作っている。
理由は大きく2つある。
ひとつめは、「他にないコーヒー碗皿を作りたい」という事。
だいたいコーヒー碗皿の形というものは、そう奇抜な形はない。
どれもほぼ同じ形だと考えて良い。(もちろん例外もあるが)
飲むという機能性を重視した場合、やはり形がスタンダードになってしまう
のは仕方のない事だろう。そうなると、後は釉薬の色や装飾の仕方で違いを
出すしかない。地味な土味系の器は他の作家さんが作っておられるので、
私がやる必要性はない。そういう理由で自分流に派出に色を並べてみた。
ふたつめは、「目立ちたい」である。来客時に私のコーヒー碗皿を
見るなり「良い器ですね」「変わった器ですね」「なんだ?こりゃ〜?」
「派出だな〜!」なんでもいい。一言、器に対して感想をもらして
くれれば、それで私は大満足なのだ。またそこから「話題」が生まれ、
会話が弾めばなおさら嬉しい。
コーヒーのCMに「ダバダ〜♪○×は知っている!違いのわかる男」と
いうのがある。有名人がコーヒーを飲むアレである。いつかは私も自作の
コーヒー碗皿をダンディーに持ちながら、そのCMに出てみたいものだ。
「ダバダ〜♪熊本栄司は知っている!」・・・
しかし熊本栄司を誰も知らない!(爆)
私は有名ではないが、一人でも私のコーヒー碗皿を使う時に
無名作家・熊本を思い出してくれるような器をこれからも作って行きたいと
思っている。
2001年5月22日
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第41話 コーヒーと器
2008-11-15T19:27:26+09:00
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第42話 ネクタイ
ネクタイほど、陶芸家と無縁のモノはないだろう。
私は1年のうちにネクタイをするのは、結婚式とお葬式の時くらいかも
しれない。まあ、たまにパーティーに出席する時にも、するにはするが、
1年のうちに何回もある訳ではない。
自慢ではないけれども、私の...
私は1年のうちにネクタイをするのは、結婚式とお葬式の時くらいかも
しれない。まあ、たまにパーティーに出席する時にも、するにはするが、
1年のうちに何回もある訳ではない。
自慢ではないけれども、私のネクタイの総本数は5本。
式服用の黒と白のネクタイを除くと3本しか持っていない。
しかも、どれも10年以上も前のネクタイである。
それと、お恥ずかしい話ではあるが、いつもネクタイをしめる時、
必ず1回ではうまく結べず、3回、4回と結び直すのである。
しかも、ネクタイをはずす時にも、普通はシュルルルル〜って感じで解けて、
一本のひも状になるはずなんだけど、なぜか、団子状にからんで
しまったりで、まったくもって情けない状態である。
私のサラリーマンの友人が家に遊びに来た時に、見事な早さと
手さばきで、ネクタイを一発でかっちょ良くしめた時は、
実に感動モノだった。まあ、彼に言わせるとそんな事は当たり前の事で
あり、驚きに値するもんじゃないそうだ!まあ、当たり前か?
そもそも、私はネクタイが似合わない。
その大きな理由として首が異常に細いという事がある。
まあ、二重アゴの人も似合わないとは思うけど、細いのも、
まあ似合わない!首の周りがブカブカなネクタイ姿はひ弱さを
一層ひきたてる!
それと前の独り言「風貌」でも書いたが、画廊でネクタイ姿でいると
誰も作家とは、気がつかない。それは別に構わないのだが、
私を店員さんだと思い込み、「この作品はここがイマイチ」とか
「もう少し色が地味ならば・・」とかの作品に対するコメントを
お客さんがされた場合、
「あの〜、これ、私が作ったんですが、以後、考慮します〜」なんて
言うと、お互い気まずくなる。作品の批評は構わない。
その場の雰囲気がとてもイヤなのだ。
そんな事から、私はよほどの事がない限り、画廊ではネクタイはしない
ようにした。どうもネクタイとは相性が悪いみたいだ。
そういえば、私が結婚する時、妻と一緒に結婚衣装を見に行った時の事
である。彼女はウェディングドレスを色々と試着しながら、決めたのだが、
私はといえば、黒のタキシードだから超簡単に決めた。
さて・・・「サイズを測らせてください!」と店員さん。
メジャーを私の首に巻く。「私は首が細いですから・・」と突っ込まれる前に
自分で言ったら、「お客さん、本当に細いですね〜」だって!
そう言われるのがイヤだから、始めから突っ込みを入れたのに、
気がきかない店員さん。
そこへ「お客様はAタイですね!」と店員さん。
私は首の事ばかり気にしていたので、
てっきり、Aタイとはネクタイの一種だと思い込み、
「蝶ネクタイですぅ〜っ!!!」とキッパリと言ってやったのだが・・・・
スーツには体型に応じてO体・AB体・A体という種類があったなんて、
日頃スーツなんて着ない、陶芸作家の私はな〜〜〜んも知らなかったのです!
あ〜恥ずかしい!とほほほほ
2002年12月27日
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第42話 ネクタイ
2008-11-15T19:25:00+09:00
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第43話 陶芸用語
当然ながら、陶芸に使われる専門用語がある。
「どべ」「しっぴき」「はばり」「なめし」「こて」「芯出し」
「ばり」「トースカン」「まくら」「がさ」「サクい」「甘い」
「ツク」「サン板」・・・等。
まあ、わかるのもあるとは思うけど、わからな...
「どべ」「しっぴき」「はばり」「なめし」「こて」「芯出し」
「ばり」「トースカン」「まくら」「がさ」「サクい」「甘い」
「ツク」「サン板」・・・等。
まあ、わかるのもあるとは思うけど、わからないのもあると思う。
陶芸用語の中に「天場」というのがある。
(天端と書くかも知れないが・・・)
これは、窯を詰める際に1番上部に位置する場所の事で、
これを「天場」(てんば)と言う。大きな作品などを普通、焼く場所
だったりする。陶芸関係者の中では、こういう言葉を日常生活の中でも、
使ってしまうような事が頻繁にある。
たとえば、トラックに荷物を積み上げる場合、1番上に置く時に
「あ!それ、天場に置いて!」なんて言う感じだ。冬、道路に氷が張っていて、
それにヒビが入っていると、どうしても「この氷、貫入が入っているな〜」
なんて具合だ。
私の友人にこういうエピソードがある。
私の陶芸友達が床屋さんに行った時の事だ。
店主に「天場が長いので切って!」と注文したらしい。
当然「頭の1番上部の毛が長いので、それを切ってくれ」と言う事だ。
それが・・・見事な短髪になってしまった。みんなに
「なんで、そんなに短くしたの〜?」なんて言われて、
当の本人も、そんなに短くするつもりはなかったと言う。
どうも、詳しく本人に話を聞いてみると、元々、天然パーマだった彼の
「天場を切って!」という事を、
床屋のマスターが「天パーを切ってくれ」・・・すなわち
「天然パーマを切れ!」と解釈したらしい。
確かに、「てんば」と「てんぱー」は似ている。
しかも、陶芸用語を店主が知っているはずもない。
これには、みんなで大笑いした記憶があるが、しばしば、
私も気がつかないうちに、陶芸用語を日常にしかも一般人?に
使用している時があるかも知れない。
気をつけよう!(^◇^;)
2002年12月27日
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第43話 陶芸用語
2008-11-15T19:21:46+09:00
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第44話 営業
自慢じゃないけど、私は営業が大の苦手である。
だから、ビジネスマンの営業担当にでもなったりしたら、3日と
持たないだろう。特に知らない家へ行っての訪問販売等は
苦手中の苦手である。知らない人の所への電話も苦手。
だから、ホテルの宿泊のための予...
だから、ビジネスマンの営業担当にでもなったりしたら、3日と
持たないだろう。特に知らない家へ行っての訪問販売等は
苦手中の苦手である。知らない人の所への電話も苦手。
だから、ホテルの宿泊のための予約電話も苦手、
コンサートのチケットを取る電話も苦手。
「すみませ〜ん、私は陶芸家の熊本と言う者なんですか・・
いや!決して怪しい者じゃございません!」・・・・・って
それだけで十分、あやしい。
苦手なのは、電話や訪問だけではない。当然、そんな事が苦手なのだから、
初めて行く店というのも、すごく苦手で、新しい店を発見しても、
中々入る勇気がない。だから私の家族は、外食となると、
毎回同じ店のローテーションという事になり、誠に気の毒だとは思うけど、
妻の方もそれほどのグルメという訳でもないし、まあ、現状に甘んじている。
はっきり言って、臆病な性格なのだ。
しかしながら、陶芸家と言えども「営業」なしでは売上がないので、
生活がなりたたない。
今、私は京都の画商さんとの、お付き合いがあるので、
もっぱら画廊の予約などは、まかせっきりである。しかし、もしその画商さんとの
お付き合いが無くなれば、自分で営業をしなければいけなくなるだろう。
世の陶芸家の中には、この「営業」に長けている人も多い。
私の知人でも自分を売り込む事が非常に上手い作家がいる。
また、自分で自らイベントを企画して自己アピールに余念がない。
傍から見ていると陶芸家と言うよりは、政治家にも似た感じを持っている人
もいるし、陶芸家を辞めてイベント会社に勤めた方が
大成するんじゃないか?とも思えたりする人もいる。
陶芸家の場合、製作はもちろんの事、仕入れ、営業から梱包・発送
から、掃除から、お茶くみ・・・
なんでもこなさないといけない。会社のように人事課や営業課は外商課、
ショムニ課みたいに分業になっていると、非常に助かるんだけど、
そういうわけにはいかない。
すなわち、陶芸家として大成するには、作品が素晴らしいのは
もちろんの事だが、自分を売り込む才能も必要となってくると思う。
私はそちらの方の才能が無いので、幾分この先の事が思いやられる。
しかしな〜・・・・何もかも自分一人でやると言うのは、
実に効率が悪いし、陶芸にも営業にも秀でている人ばかりが作家に
なれているとも思えない。そもそも、営業的な事が苦手だから、
陶芸家になった人も大勢いるはずなんだから・・・
私の場合、次回の個展の作品を揃えるだけでも、
時間的にはギリギリだ。そこへ営業の仕事が入るともう、
非常に困っちゃう訳で・・・まあ、どちらも大切なんだけど、
今の所、作品がなければ営業もなにもあったもんじゃないので、
作品作りに専念する事にしよう。
こういう時は「そのうち、なんとか、なるだろ〜う〜♪」と
植木等の歌でも歌っていよう!あははは
2003年3月10日
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第44話 営業
2008-11-15T19:19:18+09:00
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第45話 陶芸教室
約2年前から陶芸教室を始めた。
理由は作家活動だけでは生活が実に大変になってきたからである。
まあ、情けないと言えば情けない状況ではあるが、仙人のように霞を
食べて生きていく訳にもいかないし、女房、子供、家のローンまである
現状を考えると最低...
理由は作家活動だけでは生活が実に大変になってきたからである。
まあ、情けないと言えば情けない状況ではあるが、仙人のように霞を
食べて生きていく訳にもいかないし、女房、子供、家のローンまである
現状を考えると最低限の収入は必要だ。
デフレによる不景気は思った以上に厳しい状況だ。
知人の作家には「お前も落ちた!」とまで言われた。
彼は作家は作品だけで生活していくというポリシーを持っている故の
発言だらろうが、当の本人はまだ、親の援助があり、人にとやかく
言える立場ではないと思うのだが・・・・
収入が無ければ土も買えないのである。
以前の独り言でも収入の話をしたが、この不景気・・・
本当にキツイ状況である。不景気にも関わらず、売れている作家も
世の中にはいるのだから、私の努力不足と言われれば反論の余地はない。
とにかく、私は陶芸教室を始めたのだ。
陶芸教室を始めると言っても、それはそれで大変だった。
なにせ今まではスレート作りの工房で仕事をしていたんだけど、
冷暖房の設備もなければ、ロクロも2台しかない。照明も暗く、
なにせ汚い。私一人なら文句を女房にでも言っていれば済んだが、
お客さん(生徒さん)を迎え入れる環境にはなかった。
そこでまたまた借金をし、教室を立てた。
金がない所にまた借金である。人生、落ちてゆくってこういう事
なのかな〜?なんて思ったりもした。(ドラマの見すぎか?)
詳しいシステムとか料金などは、私のHPの陶芸教室の所を
見ていただければわかるので、知りたい方は見てください。
それが実際に始めてみると、教室運営もそれはそれで大変だけど、
意外にも面白い。始めは数人でスタートした教室も、そろそろ2年に
なろうとしているが、会員登録をしてくれた総人数はもうすぐ90名ほどに
もなる。
まあ、何時の間にか来なくなった生徒さんもいるので、常時そんなに
多くの生徒さんが教室に訪れる訳ではないが、生徒さんと接する事により、
一人で仕事をしていた時には考えもしなかったアイデアや発想をもらう事も
ある。それと色々な職業の方、色々な年齢の方と接する事ができ、
ある意味、本当に面白い。特に若いギャルと話ができるなんて、
教室を始めて良かったとマジで思う瞬間である!(冗談ですよ!冗談!)
それと、今まで私は作品を作って売るという事でしかお金を稼ぐ術を
知らなかったのだが、人に作らせてお金を稼ぐというのは、
なんか今までとは180度違った感があり、なんとも複雑な心境では
あるが・・・。
この先は、教室と作家活動という2足のわらじを履いた状態で進む事に
なるのだが、教室を始めたので作品のレベルが落ちたと言われないように、
がんばって行こうと思っている。
2003年8月8日
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第45話 陶芸教室
2008-11-15T19:15:53+09:00
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第46話 そういう事だったのか!
陶芸教室を始めて、人に教えるという事が多くなったけど、
この教えるという事は実に大変だったりする。
まあ、結論から言ってしまうと、「習うより慣れろ」・・・
この一言に尽きると思うが、「慣れるまで、がんばってね〜!」と
生徒さんを放置するわけに...
この教えるという事は実に大変だったりする。
まあ、結論から言ってしまうと、「習うより慣れろ」・・・
この一言に尽きると思うが、「慣れるまで、がんばってね〜!」と
生徒さんを放置するわけにもいかない。
生徒さんには、私の経験から会得したコツをわかりやすく
説明しているつもりではあるが、感覚的な事を他人にわかってもらうのは
至難の技である。
だって・・・まるで自転車の乗り方を口で説明しているのと
まったく同じなのである。やはり口頭での説明には限度がある。
まずは自転車に乗ってもらい、しかも数回、転ばないと
うまくはいかないだろう。
まさしく、「習うより慣れろ」である。
おもしろい事に、うまく作れるようになった生徒さんが口にする言葉は
「なんだ〜!そういう事だったのか〜!」である。
そうである・・・「そういう事」なのである。(^◇^;)
この悟りにも似た感覚はある日、突然やってくる。
まさしく、「ラブ・ストーリーは突然に!」の小田和正もびっくりである。
先ほど、自転車に乗る事を例に挙げたが、徐々に自転車に
乗れるようになるのではない。
ある瞬間を境にして乗れるようになるのである。
そして実際に自転車に乗れるようになると、
何故に今まで乗れなかったのか?逆に不思議に思えてくるのである。
私は学生時代に英語を専攻していたのだが、大学2年生の夏までは、
講師の外人の先生の英語がまったく理解できなかった・・・が
ある日を境にして、突如わかるようになったのである。
このある日の感覚は、今でも明確に覚えている。
まるで長いトンネルを抜けてパッとまわりが明るくなった感に似ている。
釈迦が菩提樹の下で、ある日、突然に悟りを開く、
それと似ている。・・・(お釈迦さま!偉そうでごめんなさい!)
陶芸もまったく同じで、ろくろなんかも、あるコツみたいなものが
わかると、意外に簡単にひけるものである。土練りも同じである。
ひも作りだって同じである。
逆に考えると、この悟りみたいな感覚がわかっていただけたら、
後は私の出る出番は極端に少なくなる。
実際、ある線を超えた生徒さんの作品は、やはり決定的に初心者の
それとは違うし、いわゆる「違い」がわかるゴールド・ブレンドである。(さぶ〜〜)
しかし、実際にその悟りに近い感覚は、いつやってくるのかが
わからないのが難点である。
今日かも知れないし、明日かも知れない。
ひょっとして5分後かも知れない。(これはパチンコ台にも言える。
いつ大当たりがでるか?そこが問題なんだけどな〜!!)
しかし、教室を長く続けて来る人はやはり、その感覚を身につく人が
多い。私も努力して教えているが、一人でも多く、少しでも早くこの
「そういう事だったのか〜?!?!?」という声を聞きたいものである。
2003年8月15日
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第46話 そういう事 だったのか!
2008-11-15T19:10:48+09:00
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第47話 名刺
職業柄、名刺というモノはほとんど使わない。
まあ、それでも初めての個展会場や、個展期間中には
色々と名刺交換をする状況は出てくるけど、それでも日頃、
持ち歩いていないせいか、名刺交換になって初めて自分が名刺を家に
忘れてきた事に気づいたりで、...
まあ、それでも初めての個展会場や、個展期間中には
色々と名刺交換をする状況は出てくるけど、それでも日頃、
持ち歩いていないせいか、名刺交換になって初めて自分が名刺を家に
忘れてきた事に気づいたりで、困ってしまう事もしばしばである。
やはり紙切れ1枚の名刺交換だが、あれはどちらか一方だけ渡す形に
なるとやっぱり不自然だし、自分だけ渡して相手が渡してくれない時は
何かしら損をしたような気分になるから不思議である。
だから、名刺交換という場面が想定される場所には、持っていくのが良いと
思われるのだが、先ほども書いたように、日頃に持ち歩く習慣がないので、
ついつい忘れがちになってしまうのである。いけない!いけない!
名刺交換をした際に、やはり相手さんの名刺を見るわけだけど、
「○○株式会社××部△△課長・・・・」と書いてあるパターンが
非常に多いのだが、一見して何をしているのかさっぱりわからない場合も
ある。
私の親友に名刺をもらったが、肩書きはこうである。
「物流事業本部 国際物流事業部 国際出荷事業部 マーケティング・グループ
中国物流担当マネージャー」である!
もう、何が何だか?さっぱりわからない。
私も一応、名刺を持ってはいるが肩書きは何も書いていない。
名前、住所、電話番号、メールアドレス、URLが書いてあるだけである。逆の意味でこの人は誰?何をやっている人?って感じだろうか?
・・・・で、新しく名刺を作り直そうかと考えた。
前に作った名刺ももう残り少なくなってきたし。
ここは一丁、肩書きでも書き足してみようか?
第一候補は「陶芸家」である。
第二候補は「光風窯陶芸倶楽部・主宰」
第三候補は「光風窯・代表取締役社長!!」
第四候補は「宇宙連邦所属・宇宙戦艦USSエンタープライズ艦長」
・・・っていうのは希望職!
まあ、一人でやっているのだから、「代表取締役」であり、
「人事部長」であり、「庶務課長」であり、「清掃員」であり、
「お茶くみ」であり、「名誉会長」でもある訳だから、
「代表取締役」っていうのは、やっぱりちょっと違うって感じがする。
でも、一人でやっている会社でも「代表取締役」の名刺を
持っておられる人は結構いるんですよ。たぶんそれは自分で自分を
取り締まらないと、だらけてしまうからかも知れない。
だって一人なんだもんね。
以前にも独り言で書いたけど、陶芸家って自称の世界だし、
別に免許がいる職業でもないから、自分が陶芸家だと思えば、
堂々と名刺にでもなんでも書けばよいと思う。
人生生きていると、職業欄のところに自分の職種を書く場面に
遭遇する事が多い。私の場合、たいていは「自由業」と書くんだけど、
たまに「陶芸家」と書くと、結構「へ〜っ!」って感じで見られるのには
笑える。「50へ〜」くらいはいける!(爆)
名刺についても、何も書いてないよりは「陶芸家」の肩書きでも
書いておいた方が珍しい職業?だから重宝がられるかも知れない。
だって名刺に「代表取締役」って書いてあると、
「おっ!この人、エライんだ!」って錯覚しちゃうもんね。
2003年9月9日
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第47話 名刺
2008-11-15T18:36:46+09:00
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第48話 土と遊ぶ
正直に記すと、私は土と遊ぶと言うよりは、格闘して今までやってきた。
自分の表現したい作品に仕上げるには、土という素材は実に
強敵であり、ちょっとした気のゆるみが、最終的に失敗を導く事が
あるのを、いやほど経験してきているからである。
よく、...
自分の表現したい作品に仕上げるには、土という素材は実に
強敵であり、ちょっとした気のゆるみが、最終的に失敗を導く事が
あるのを、いやほど経験してきているからである。
よく、「土と遊ぶ」・・・・というキャッチフレーズで展覧会が
開かれているが、個人的にはとてもそんな心境にはなれない。
たかが陶芸、されど陶芸。残念ながら、まだ今現在、
私は土と遊んでいない。
いくら自分が作りこんだ作品でも、最終的には窯の中で焼くわけで、
その部分に関しては火の神様にゆだねるしかない。
この一旦、自分の手を離れるという、陶芸独特の行程は、時には微笑み、
時にはしっぺ返しを食らうハメになり、なんとか成功率を上げるために、
あの手、この手とやってきた訳である。
今、私は新たに磁器土の作品に取り組みだした。
磁器土は今まで使っていた信楽の土とはまったく違う性質を持っている。
性質というよりは、ここは人間にたとえて性格と言って良いかも知れない。
信楽の土に比べて腰がなく、フニャフニャしていて、なんとも
コントロールがきかないのである。土と遊ぶというよりは、
土に遊ばれているって感じである。
よく「土と遊べるようになれば本物だ」という事を耳にする。
確かにそういう心境にまで達したならそうであろうが、今の私には
残念ながら無理な注文って感じだ。
遊びのある作品もあっていいし、いや、作品自体は遊びがあった方が
面白い。矛盾しているようだが私は遊びを前面に出している作品も
心がけているのだが、正直、心の底から土と遊んでない以上、
それは見る側にとって中途半端に映るかも知れない。
だからと言って、私は「・・・ねばならない」的な考え方は
あまり好きではないのである
土と遊べるようになれば本物だからと、無理に遊ぶ振りなど私には
できない。遊ばなければいけないという脅迫観念で作陶するのも
嫌であるし、HPで格好つけに「私は土と遊んでいます!」なんて
ウソを書く気もない。
いつか・・・いつの日か本当に土と遊べる日が来る事を願って、
私は今日も土と格闘している。
しかし、教室の生徒さんから見ると、私は毎日土と遊んでいるように
見えるらしい。ダハハハ!。
2003年9月17日
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第48話 土と遊ぶ
2008-11-15T18:31:45+09:00
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第49話 わかっていない!
陶芸を始めて20年弱にもなるのに、
私は陶芸の事が全然わかっていない。
美術館や陶芸館などで昔の名品とされる作品を見ても、
あまり心が躍らない私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
備前焼は好きなのだが、どれも同じに見えてしまう時...
私は陶芸の事が全然わかっていない。
美術館や陶芸館などで昔の名品とされる作品を見ても、
あまり心が躍らない私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
備前焼は好きなのだが、どれも同じに見えてしまう時がある私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
本物の焼物を勉強しなさいとよく聞くが、
そもそも本物とは何かわからない私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
昔の作品をどうして再現するのかわからない私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
桃山時代にガス窯があったなら当時の人は薪ではなく
ガスを使っていたと思う私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
唐九郎の作品は好きだが、
最晩年の作品がまったく好きになれない私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
陶芸の基本は土練りと思わない私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
陶芸雑誌を見て、毎回同じような特集ばかりだな〜と思う私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
土を自分で山に掘りに行きたくない私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
約束事を無視している有名茶碗を見て、わけわかんなくなる私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
鑑定団で偽物だと言われ落胆している人に
「好きなら関係ないじゃん!」と思う私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
画廊で高額の作品を見て「なんでこれが?」と
思う事がよくある私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
逆にお値打ちな作品を見て「なんでこれが?」と
思う事がよくある私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・間違いない!
叶姉妹の胸がなんであんなに大きいのか、
あやしいと思ってしまう私は・・・
陶芸の事が全然わかってない・・・って・・・それは違うか?
2004年1月25日
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第49話 わかっていない!
2008-11-15T18:28:15+09:00
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第50話 ショッカーな作品
前回の独り言の続きで、陶芸がわからないなりにもっと書いてみようと思う。
仮面ライダーに出て来る「ショッカー」というキャラクターを
皆さんはご存知だろうか?
悪者の親玉について、「キィーーーーーーッ!!」とか言って出て来る、
いわゆる、時...
仮面ライダーに出て来る「ショッカー」というキャラクターを
皆さんはご存知だろうか?
悪者の親玉について、「キィーーーーーーッ!!」とか言って出て来る、
いわゆる、時代劇で悪代官の下で「野郎ども〜!やってしまえ〜!!」と
いう、いわゆる、野郎どもである。
しかし、悲しいかな、登場したかと思ったら仮面ライダーの一撃により、
アッと言う間にブラウン管から姿を消してしまう、
なんとも悲しいキャラクターなのだ。
その「ショッカー」というのが、全員、黒いボディータイツに
白い色で骨のような模様が書いてある。顔までそのタイツをかぶっているので、
個人の区別がまったくつかない。
その「ショッカー」と陶芸が、何の関係があるのかと、
不思議に思われるだろうが、私、個人的には焼物の世界にも、
この誰が誰なのかわからない「ショッカー」的な作品が多く
存在するのには少々考えさせられる。
それは、アマチュアの人をはじめ、
プロの陶芸作家と呼ばれている人にも多く見受けられる。
この現象を、私は陶芸界の「ショッカー現象」と呼ぶようにしている。
私は派手な作品も作ってはいるけど、本当の事を言うと、
備前焼大好き人間である。あの土味・焼味。なかなか備前焼に勝とうと
思うと相当にシンドイと思う。本当は備前焼みたいな焼物もしてみたいと
思っている。(だけどあえてしない、まったくの偏屈人間である)
しかし残念ながら、備前はショッカーの量産現場であるような気もするのだよ。
そりゃ〜、無地で・・焼き〆で・・形も似ている・・となると、
そこに作者の影を見る事が本当に難しくなってくる。
備前焼の作品をグチャグチャに並べてみて、あなたはどれがどれと
判別できるだろうか?
出来る人もいるにはいるだろうが、よほどの備前マニアか、
鑑定団の先生くらいか?一般の人にはほとんど無理な話である。
私は無理だ。
私に見る目がないのも認めるけど、見る目を相当につけないと、
作家判別が困難というのもおかしな話だと思ってしまう。
よく百貨店で備前焼が並んではいるが、作品の前に名前と値段がなければ
誰が作ったのか、さーーーーーーーーーっぱりわかならい。
これを誰が誰なのかわからない「ショッカー現象」と呼ばずには
おれないだろう。
私は先にも述べたが、備前焼を悪く言うつもりはさらさらなく無く。
むしろ「アイ・ラブ・備前」なのだ。しかし、それと受ける印象というのは
別問題だし、事実、某百貨店の画廊担当の人も、私と同じ意見だったので
驚いてしまったし、個展先で出会う陶芸作家も私と同じ意見だった。
まさか、備前焼作家の人が一斉に振り向いた時、顔まで皆同じという事
はないだろう。結構個性的な作家が備前には多いのに、なぜかよく似た作品
を見る時、見分けのつかないショッカーのおそろいの服を連想してしまう。
あれだけ素晴らしい色が出る備前焼。もっと個性的だったら魅力倍増だと
私個人は思う。
これは備前焼に限った事じゃないけど、今までの長い歴史の中で生き
残ってきた、スタンダードの焼き方や形にしてしまうのが、敵(世間)か
らの攻撃を受けなくて楽だ。うけも良い。そういう人が多くなると、
同じ作品群が多くなる。作品の良し悪しの事を言っているのじゃない。
受ける印象なのだ。
たぶん、こう書くと作家自身は、同じ形のように見えても全然違う!と
言われるだろう。それで結構なのだが、ここではあくまで「私」はその違い
がわからない!!と言っているのである。
この文章を読んでいる皆さんはいかがなものだろうか?こういう事を
言ってしまうのは、「裸の王様」的な事で、口にするのはタブーなの
だろうか?私の意見が間違っているのだろうか?
最近の備前焼作家の中には、今までにない造形美を作り出している作家
も出ていて、やはり造形のすばらしさと、あの備前焼の肌合いがマッチして
いてとても良い。
周りが黒いショッカーだらけで、自分だけ赤いショッカー服を着るのは
勇気がいるし、攻撃や非難の対象になるだろうが、逆にその他大勢の中に
埋もれていて、見分けがつかないよりは作家としては良いのではないか?
と思う!
どうせなら、最後に仮面ライダーにライダーキックを浴びせられ、
大爆発で吹っ飛ぶ個性的怪人の方がカッコイイ?と思うのは
私だけだろうか?
・・・・・・私だけだろうな?(^◇^;)
2004年1月25日
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第50話 ショッカーな作品
2008-11-15T17:44:41+09:00
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第51話 陶芸家の年賀状
早いものでもう3月の後半である。本当に月日の流れるのは早く、
中年老い易く学成り難しである(爆)
しかし、この3ヶ月間にちょくちょく私が出した年賀状の話題が、
教室の生徒さん、はたまた個展会場であった。
今年、私が出した年賀状には家族全...
中年老い易く学成り難しである(爆)
しかし、この3ヶ月間にちょくちょく私が出した年賀状の話題が、
教室の生徒さん、はたまた個展会場であった。
今年、私が出した年賀状には家族全員が電動ろくろの前に座り、
作品を作っている写真で構成されていた。それを見た人が、
「いいわね〜!家族で陶芸なんて〜!」とか「さすがに陶芸一家だね〜!」
な〜んて言ってくれるのである。
しかし、この写真は実は「ヤラセ」なのである。
実際にろくろがひけるのは私だけで、あとの女房、子供2人はろくろを
しているフリだけなのである。そうなのだ、私の年賀状は嘘八百なのである(^◇^;)
あはは、ごめんなさい!ちなみに去年の年賀状は家族4人がビートルズになった(爆)
たかが年賀状、されど年賀状。印刷会社に印刷してもらった年賀状、
しかもありきたりの新年のご挨拶文ではやはり寂しい。
正直その手の年賀状は読む時に右から左といったパターンである。
全然、記憶に残らない。
一昔前までは手作り年賀状でなければと、筆で書いたり、芋版画、
ゴム版画等で作っていたのだが、年々年賀状を出す数が増えて、
とても手作りとはいかなくなってきた。芋版画なんて20枚分も使えば
ボロボロになってきてとてもじゃないが、非能率的である。
私の場合、家族全員で約400枚の年賀状を暮れに
郵便局に頼むのであるが、まあ、それが多いか少ないかはわからないけど、
とにかく純粋なる手作り年賀状は無理な状態になった。
かと言って、つまらない賀状では、陶芸家・・・アーティストの端くれ
として・・・許されない事である。年賀状も作品の一部なのだーーーー!!
(ちょっとカッコつけすぎです)
ここはやはり、文明の力を借りない手はない。
昨今はパソコンとプリンターがあり、デザインやアイデアさえしっかりやれば、
手作り年賀状にも匹敵する・・いやそれ以上の効力を発揮するのだ。
つまりはインパクト!記憶に残るような賀状にしたい。ただそれのみである。
先ほどカッコつけて「賀状も作品の一部だ〜!」などと書いたが、
あながち素通りされるのをいやがるのは、年賀状も作品も同じなのである。
毎年、ある陶芸家から年賀状をいただくが、
「ザ・陶芸家」という年賀状である。その年賀状を見ながら
「やはり陶芸家たるのも、賀状も手を抜いてはいかん」と
年の初めに思わされるのである。
・・・・って「なんだ?この年賀状は???」と言われているかも知れないけど・・・
2004年3月20日
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第51話 陶芸家の年賀状
2008-11-15T17:40:02+09:00
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第52話 元総理の職業
元総理大臣、細川護煕氏の事は誰でもご存知であろう。
日本新党で、一世を風靡した人物である。
その元総理大臣が今はなんと陶芸家になっておられるのも
ご存知だろうか?引退後は政治評論家でもなく、
ハマコーみたいなタレントでもなく、殿様でもなく、
...
日本新党で、一世を風靡した人物である。
その元総理大臣が今はなんと陶芸家になっておられるのも
ご存知だろうか?引退後は政治評論家でもなく、
ハマコーみたいなタレントでもなく、殿様でもなく、
陶芸家なのだ。
その事をはじめて知った時の感想は「なんでまた陶芸家?」であった。
彼は元総理大臣である。とにかく偉いお方なのである。
そのお方がなんで陶芸家??私は嬉しいような、悲しいような、
実に変な気分になった事を今でもはっきりと覚えている。
なぜ悲しいと思ったかといえば、あれほど劇的に総理大臣のスタイルを
変えた方は、
歴代の総理経験者ではいなかったような気がするし、
なによりも日本新党が出てきた時は、「この党は日本を変えてくれる!」
とまで思った。そのリーダーであった細川護煕氏は大臣を退いた後も
日本のためにがんばってくれるとばかり思っていたからである。
それが・・・なんと陶芸家である。
元総理大臣が私と同じ職業ではないか!!
それは嬉しい反面でもあるがインド人もびっくりである!!
それほど昔から陶芸に興味を持たれていたのなら在職中に・・・
陶芸家は無税にするとか・・・
陶芸家は新幹線にただで乗れるとか・・・
陶芸家には秘書給与をつけてくれるとか・・・
陶芸家には特別に議員年金をつけてくれるとか・・・
(国民年金だけでは老後の生活はかなりの不安)
してくれれば良かったのに・・・ってそれは無理な話か?!
とにかく元総理大臣は陶芸家になったのだ。
しかし、同じ陶芸家なのに私とまるで違う職業のような
感じがするのはなぜなのだろう。
それは・・・元・総理大臣だからである。
絶対的な知名度。それは同じ陶芸家である私との根本的な違いである。
彼が総理大臣で国会でがんばっている時、すでに私は陶芸家だったのだが、
陶芸家としての知名度も私と比べると天と地ほどの差がある。
差があるというのは、知名度だけではなく、根本的なところが違う。
つまり元総理大臣は「食う」という事に関しては現在はもう何も心配はない。
仮に作品が売れないとしても、何の問題もないはずである。
私の場合は売れないという事は死活問題なのである。
そういう点で同じ職業でありながら、同じ職業だという意識に欠ける点かも知れない。
同じ陶芸家という職業でも中身は大きく人によって違うのである。
しかし、逆に元総理の陶芸という事だけで、鑑賞される場合も当然あるだろうから、
それはそれで大変だとは思うけど・・・
2004年4月15日
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第52話 元総理の職業
2008-11-15T17:29:23+09:00
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