第21話 風貌

  はっきり言って私は童顔だ!自慢するとかしないとかの問題ではない。
客観的な事実を述べている。

  今、現在37才なのだが、どう見ても年相応には見られないみたいで
ある。極端な例ではあるが、先日、大学生に間違えられてしまった。
あまりに老けて見られるのも、嫌なものだがあまりに若く見られるのも、
自分としてはちょっと・・・という感が否めない。

  個展の準備をしていても、はじめてお会いする方は、お弟子さんが
準備をしているのだと、勘違いされる始末である。
(弟子なんてとれる身分じゃないのに)

  個展開催時には悲惨である。誰も私が作家だとは気付かない。
スーツにネクタイ姿で個展会場に立っていようものなら、
店員もしくは外商の人に間違われる。「陶芸家」と「熊本」という苗字から
連想される人物像(風貌)と本人とはかなりかけ離れているみたいだ。

  店員さんが「この方が作家さんです」とお客さんに紹介すると、
決って「若い作家さんですね〜!」と驚かれる。漠然とした陶芸家の
イメージはやはり「おっさん」や「おじいさん」なのである。
(事実、私はおっさんなのだが)しかも若い作家の作品は未熟という
イメージで見られるのもツライものがある。確かに未熟者だけれども
同じ作品でもおじいさん作家が作ったのと若い作家が作ったのでは
見られ方に差が出てくるのが、傍で見ていてよくわかる。

  つまらない話だが、なんとか年相応に見られ、威厳を持つには
どうすれば良いか自分なりに考えた結果、髭を伸ばす事にした。
2週間ほどガンバッテ伸ばしてみたが・・・なんとも評判が良くない。
カミさんからは特に嫌われた!!体が大きくローマの兵士みたいな体格なら
まだしも、背が低く痩せている私が髭を伸ばすとインドの修行僧になって
しまうのだ。トホホである。

  人によっては「芸術家は若く見られるもんだよ!」と言うし、
ある人は「苦労が足りないから、若くみられるんだ」と
説教をくらうはめになってしまう。どちらの意見も当たっているようで、
はずれているようで・・・

  人間にはどうしようもない事柄がたくさんある。
歯並びや鼻の高さなどの外見的要素は、努力とはまったくと言って
関係ない。知的な顔つきだから優れている人間という訳でもないし、
しわが多いから苦労を知っている訳でもない。

  外見は非常に大事な要素である事には間違いないが、外見だけで
人物を判断されるのは正直、あまり気分が良いものではない。

  昔、どこかで「心だけで生まれてくればよかった」なんて
セリフを聞いた事があるが、この歳になって、その気持ちがわかる
自分がちょっと情けない。 (沈)

2000年7月25日

第22話 メンテナンス

  この世のあらゆる物は時間が経過すると古くなってくる。
家屋しかり、自動車しかり、電化製品しかりだ。
これらを長持ちさせる為にはメンテナンスが必要だ。古くなった家の外壁に
ペンキを塗ったり、自動車のオイルやタイヤを交換したり、
電化製品の部品を交換したり・・・・

  当然、人間だってメンテナンスが必要だ。
人間のメンテナンスとは、休息や休憩時間と言う事になる。

  最近、自慢じゃないが土曜、日曜も無く、なんだかんだと休み無しで
きている。当然、子供をどこかに遊びに連れて行ってあげるなんて事は
今の所無理である。

  個展の準備にかかる日数を逆算すると、休んでいられないのである。
また途中で失敗作が出てきて、またまた予定は大きくずれてゆく。
それ以外にも突発的な用事が割りこんで来て、ますます休めない。

  しかし最近、「そうやって走り続ける事が本当に最善の方法なのか?」
と自問自答しはじめている。

  忙しいから失敗する。失敗するから予定が狂ってくる。
予定が狂ってくるから忙しい!・・・の繰り返しでなんともセカセカして
いるだけで、良い成果が得られそうに無い。

  まして、新しい作品、新しい自己表現を作り出すのに、このような
余裕の無い状態では決して良いアイデアは浮かんでこない。 困った!!

   たとえば、今二人の木こりがいるとしよう。百本の木を切る競争を
始めた。一人はとにかく木を切りまくる。一心不乱に切りまくる。
もう一人は十本切っては休憩し斧を研ぐ。そうこうしていると、
さすがに一心不乱に切っているきこりはもうひとりの木こりよりも
大幅にリードしている。

  しかし、ある本数までいくと斧がだんだん切れなくなってきたのだ。
もちろん理由は斧を研いでないからだ。切り口は荒れ、スピードは激減
する。そこへ先ほどまで休息し斧を研いでいる木こりが反撃を始めた。
鋭い斧は木を見事に切り倒してゆく。休んでいるので体力もある。

  結果がどうなるかは、みなさんの想像におまかせする事とするが、
今の自分をみると前者の木こりに似ているような気がしてならない。

  別に2週間や3週間の長期休暇が欲しいわけではない。
少ない時間で体力、精神力を回復(メンテナンス)できる自分を
作り上げていかなければいけないと思う。一日は24時間。
これは変えられない事実なのだから。

2000年8月5日

第23話 100円ショップ

  先日100円ショップへ行った。
全ての商品が100円で売っているあのお店だ。
もう、ありとあらゆる物がそろっていて、しかもすべて100円と
いう安さ。思わずいらない物まで買ってしまいそうになる。

  陶器も売っていた。ここで私はカナヅチで頭をガーンと
殴られたような気分になった。

  湯のみやお皿も100円。そして急須、土鍋まで100円!なのだ。
どうやって作れば100円で利益が出るのか、私の頭では理解できない。
後ろのシールを見てみると「MADE IN CHINA」と書いてある。

  いくら人件費が安い中国とはいえ、急須や土鍋が100円とは
驚きである。

  ちなみに私のコーヒー碗皿(金彩赤絵)の値段が今現在一個 
八千円〜一万円である。私のコーヒー碗皿一個で100個買える計算である。
なんともはやである。

  私の食器は自分で言うのもなんだが、1個、1個、手でロクロを回し、
金彩等、時間をかけて丁寧に作っているつもりだ。確かに一万円は高いと
思われるかもしれないが、それでも実際、かかった時間や労力を考えると、
それほど儲けはない。
(ちなみにお店で売れば、作家にはまるまる一万円入ってきませんよ)

  手で作ったから良い物、機械で作ったから悪い物・・とは
私は思わない。手で作っていても、粗悪な物もあるし、機械生産でも
良い物はたくさんある。

  しかし、いくら機械で作っているとは言え、
上代100円というのには、驚きを隠せない!

  今、四日市の萬古焼業界も価格破壊の波に押されている。
みなさん、決して仕事をさぼっている訳ではない。しかし今のご時世、
真面目にやっていてもダメな場合もある。

  なにせ100円である。いくら日本で企業努力をしても
店頭価格100円の商品を作る事は不可能としか思えない。
まあ、これは陶器の話だが・・・

  こういう場合、どうすればいいのだろうか?もはや同じ土俵で
勝負をする事は無意味とも思える。

  私の場合、同じ陶器でもなんか土俵が違うって感じで・・・
「100円?よくやるな〜」と最近思えてきた。
それでお遊びで100円の真っ白な急須を買ってきた。
それに赤絵、金彩をしてスゴイ急須にする予定だ!

  友人に「これ100円ショップで買った急須だよ」と
自慢してやるんだ!?嫌味かな〜??

2000年8月15日

第24話  チャリティー

  チャリティーと聞くと年末を思い浮かべるが、実は年末に限った事では
ない。1年を通して結構色々な所から、チャリティーのお誘いを受ける。

  まあ、本当の所、こちらがチャリティーして欲しい経済状況なのだが、
日頃、世間にあまり貢献していないので、出来得る限りではあるが
参加させていただいている。放送局や新聞社、はたまたデパートが主催する
チャリティーが一般的だ。

  また、正直な話、チャリティーのタイトルが無名作家の心を
くすぐるのだ。「地元著名人によるチャリティー展」とか
「東海地区選抜作家によるチャリティー」とか・・・
「ア〜、そうなんだ、自分は選抜されたんだ?!」なんて単純に
嬉しくなってしまっている。単純といえば単純だ!

  私みたいな無名の作家が出品すると思えば、もちろん日本でも有名な
作家は当然リストに名前が上がっていてチャリティー展の目玉になる。
価格はチャリティー価格なので、有名作家の作品が安く買えると言う事で、
熱狂的な陶芸ファンが徹夜で並ぶ事もよくある。
 
  まあ、安いと言っても正規の値段よりは安いと言う事で、当然私の作品
とは比べ物にならないくらいの値がついている。それでもオープンしてから
数時間で、人気作家の作品には赤札がつく。

  何も早いもの勝ちのチャリティーだけではない。一口1000円で
チャリティーに参加して、くじを引き当たったら作品をもらえるという形式
のチャリティーもある。嬉しい事に私の作品の当選者からお礼の手紙を
頂戴する事もある。別にお礼を言われる立場ではないのだが、
すごく嬉しい。わざわざ手紙まで頂くとさすがに恐縮してしまう。
でも色々な形で貢献できたと思うと、作品を提供した甲斐があると
いうものだ。

  ただ、毎回思う事なんだが、チャリティーの収益金がどのように
使われているのか知りたいものだ。何々財団に寄付しました!
まではいいのだが、その先はどのように使われているのかが分かると、
次回からいっそうチャリティーに出品する心構えが変わってくると
いうものだ。たとえば車椅子をいくつ買ったとか、
薬をどれほど調達できたとか・・・

  まあ、私の貢献している金額では「使い道を教えてほしい!」と
言うのもおこがましいが、まあ、そういう問題じゃないからね!
あと税金の無駄遣いを省けば、すごい金額がチャリティーなり
福祉なりに回ると思うけど。

  年末、チャリティーを叫ぶ一方、同じ所を何回も掘り返している
道路工事を見ると、なんともやるせない気分になるのは
私だけだろうか???

2000年8月25日

第25話  有名人

  今、私があなたに
「日本を代表する陶芸家の名前を10人あげてください!」と
質問したら・・・はて、何人の名前をあげる事ができるでしょうか?

  まあ、私のホームページを読みに来てくださっている方は
陶芸好きの人が多いと思うので、10人くらいの名前はすぐに出てくると
思われますが、それ以外の一般的な人々にこの質問をしても
10人の作家の名前は、すぐには出てこないだろうと予想されるが
いかがだろうか?

  それ程に陶芸家として世の人々に名前を認知していただくのは
大変な事で、それは陶芸に限った事ではない。

  「10人の日本画家をあげてください。」
  「10人の彫刻家をあげてください。」
  「10人の洋画家をあげてください。」
  「10人の書道家をあげてください。」
  「10人の建築家をあげてください。」

  さて、あなたはどれだけ答える事ができただろうか?
いや、「知っていなくて何が悪い!」と言われればそれまでだけれども、
よく私のまわりの方々に
「早く有名になってくださいね!そうなれば買った作品の値段があがるでしょう!?」と
冗談半分に言われる事があるけれど、
有名人になると言う事は並大抵な事ではなれない。

  色々な分野の日本を代表する人々の名前「TOP10」が
そう簡単には出てこないのである。陶芸界の売れっ子作家と言えども、
多くの一般の人々が知っているとは到底思えない。

  それにひきかえ、メディア(TV、ラジオ、新聞、本、等)で
活躍されている方々は認知度が高い。加藤唐九郎を知らなくても久米宏は
知っているだろう!有名人とは誰もが知っている人の事をさすのだ。

  「え〜?!加藤唐九郎を知らないの〜?陶芸界では有名だよ〜!」と
言ったところで、「へ〜、そうなんだ?でも私、陶芸には興味がないから
知らなくてもいいんだ!」

  そうなのだ。有名人とはこちらが勉強して覚える名前ではなく、
何時の間にか知っている人の事なのだ。

  先日、デパートで個展を開いたが、隣の画廊では「片岡鶴太郎展」を
やっていた。さすがに有名人である。買う、買わないは別にして人は
集まってくる。その流れで私の「陶芸」の個展も見ていただける結果と
なったが、「な〜んだ、鶴ちゃんじゃないんだ!」と言って
プイッと背を向かれると、ちょっぴりだけど寂しくなる。

  別にひがんでいる訳ではない。無名の作家の個展と有名人の個展の差を
まざまざと見せつけられただけである。

  特に私の場合、有名作家と同時開催の個展が多い。片岡鶴太郎しかり、
山下 清しかり、人間国宝の清水卯一しかりである。
有名人とのめぐり合わせはあるんだけどな〜!!

2000年9月5日

第26話   天職

  「いいですね〜、好きな事が仕事でうらやましいです!!」と
よく人に言われる。
用事で人に会う時も、個展会場でも、初めてうちの工房を訪ねてくれる人も、
示し合わせたように同じ風に言われる。

  確かに陶芸は好きだし、それを仕事としている。
実に幸せであると思っている。稀に「天職ですね!」とも言われる。

  しかしながら本当に陶芸家が天職であるかどうかはわからない。
人の命は限られていて、その間に職業を選んでいるわけで後戻りが
できない。だから1000の職種があれば、すべて体験してどれが
自分に1番合うかという具合にはいかないのである。

  それと現時点で「陶芸家が天職だろうか?」と思ってしまうのには
理由がある。公募展に入選しグランプリに輝き、たくさんの賞を頂いてもなお、
「自分は陶芸家に向いていないんじゃないか?」と思う時が正直ある。

  いわゆる、スランプである。この時期に突入すると最悪である。
アイデアにしても考えても、考えても、新しい斬新な発想が湧いてこない。
製作においても、なぜか失敗続きでむしろ寝てた方がまし状態の時がある。
何をやってもうまくいかず、土を見るのも触るのもいやになる。
「あ〜だめだ!向いてないな〜!」と愚痴をこぼしていまうのだ。

  まあ、人間だから調子の良い時もあれば悪い時もあるから、
土を見るのがいやになったからと言って、陶芸を嫌いになった訳でもないし、
この職業を変えようと思った事もない。
(本当は他には何もできないから、変えられないのも事実だが)

  しかしながら「天職」という言葉の響は私にとって重厚で威厳のある
言葉なのだ。だから「はい!陶芸は天職です!」と軽軽しく断言なんて
できない。言うだけなら簡単だけど・・

  「天才」「才能」「才覚」等はある意味生まれ持った「才」の事で
努力したから得られる物では決してない。天職とはこの「才」によって
のみ、意味付けられる言葉なのだ。

  「天職」だったかどうかは、これから先・・・
自分自身の努力と「才」による成果が結果に結び付いた時、
はじめて「天職」だったかどうか判断できると思っている。 

  「やっぱり陶芸が天職だった!!」と言える、そういう日が
くる事を心の底から望んでいる。
「転職しとけばよかった・・」なんてならぬように・・・

2000年9月15日

第27話 陶芸家の女房

  もしも私が未婚の女性でこれから結婚するとしよう。
嫁ぎ先の職業が陶芸家なら「2,3日考えさせていただきます。」
と言って別の男を探すだろう!
それほどに陶芸家に嫁ぐのは余程の覚悟が必要だ。

  理由はいたって簡単。かなりキツイからである。
体力的、時間的、経済的・・・数えればどんどん出てくる。

  結婚した当初、私は妻に仕事を手伝ってもらうつもりはさらさらなく、
家事に専念してもらうつもりだった。それは自分自身、結婚するまで焼き物
をやっている家に生まれ、自分の母親を見て育ってきたからである。
家事と焼き物の手伝いというのは決して楽な環境とは思えなかった。

  それがどっこい、今はバリバリに働いてもらってしまっている!

  職業に貴賎の差は無いが、やはり都会のOLに比べれば、肉体労働が
多いし、化粧や良い服などは無縁の世界だ。それでいて高収入が得られる
訳でもなく、実際、現時点で私は妻に給料は払っていない。
つまりタダ働きである。・・・と言っても妻が手伝ってくれた事が
私の収入につながり、それで生計を立てている訳だから
まるきり「タダ」という訳ではないかも知れないが・・・・ 

  陶芸家の妻の仕事は雑用に始まり、雑用に終る。

  バケツを洗ったり、花瓶のシリコン塗り、作品リストの製作、
作品の寸法を計り木箱等の発注、コンピューターの中に作品画像を
整理したり・・・これらの雑用の集積は非常に大事な仕事で、
実のところ陶芸家の仕事の約3分の1程度はこうゆう雑用なのだ。
だから妻の助けなしでは正直私は陶芸家としてやって行けないと言って
過言ではない。

  そして、この上に私の製作が遅れてくると妻に作陶の一部を
手伝ってもらうはめになるのだが、「ここが悪い、あそこが悪い!」と
私の説教を聞くはめになり、まあ一応に気の毒だ。

  もうこうなったら、自分の運命が悪かったとあきらめてもらう
しかない。かわいそうだ!

  この独り言を読んで下さっている独身女性に言いたい。
もし結婚するなら陶芸家はやめて、どこかのお金持ちとの結婚を勧めたい。
え?そんな事言われなくても分かっている?はい、失礼しました。

  この独り言を読んで下さっている既婚女性に言いたい。
もっと女房を大事にしろって??
う〜、同じように私も大事にしてもらいたい〜。トホホホ

2000年10月5日

第28話 学校では教えてくれない事

  陶芸を勉強したければ専門校や陶芸教室に行けば色々と
学ぶ事ができる。土の事、造形の事、釉薬の事、焼成の事
・・・基本的な知識や技術から専門的な事まで一応に学ぶ事ができる。

  卒業する頃には、相当な陶芸の技術や知識を身につけていると
思われる。私自身は陶芸の専門的な教育を受けなかったので、
陶芸の学校の内容はよくわからないが、友人に専門校を出た人がいるので
その人の話からだいたいの内容を知る事ができる。

  しかしながら卒業生の全員が陶芸関係の仕事についているかと
いえば・・・そうではない。

  理由はいろいろあるだろう。学校では教養の範囲で陶芸を勉強した人も
いるだろう。中には陶芸家になりたいのだが、窯を買ったり、
道具を買ったり、場所がなかったりの理由で、とりあえず他の仕事に
ついている人も多いと思う。

  昔、「大学を出たけれど・・・」というフレーズがあったが、
「陶芸を学校で勉強したけれど・・・」というフレーズも悲しいかな
真実味を帯びている。

  学校では教えてくれない事・・・しかしながら一番重要な事。
それは陶芸で生活して行く方法だ。

  いくら知識や技術があってもそれだけでは生活して行けない。
その技術をいかして生活する方法、製作した作品等を売って生活する方法を
知っていないと先へは進めない。

  もし陶芸家になりたいのに、やはり躊躇する人はやはりその事が
ネックになっていると思われる。

  実は作品を作る事も確かに大変だけれども、もっと大変なのは
作った作品を売る事なのだ。どうやって作品を売るのか?
これは大問題である。

  極端な話、この事の方が学校で教えてくれる事よりはるかに
重要であるし、学校で勉強した事もこの問題を解決しない限り、
効果を発揮しない。

  私の場合この世界に入って15年ほどになるのだが、
始めは問屋さん相手にカタログの商品や一品商品などを作り、
それを買ってもらって生計を立てていた。
それも父が陶芸をやっていたのですんなり、陶芸の環境に入る事が
できたが、何もないところから窯や道具類を揃えるとなると実に大変で、
もし父がやっていなければたぶんこの世界には入らなかったと思う。

  だから他の若い作家から「熊本君はボンボンだ!」
と言われたりもした。そうなのだ。何もない所から陶芸を志す人から
見ればあまりにも私は恵まれている。しかしながらそういう環境下でも
作品を売って生活して行くという事はまた別の話だ。

  窯や道具類があったところで、作った作品が売れて行かなければ
ボンボンも何もないのである。

  今、私は京都の業者(画商)さんとのお付き合いがあり、
色々な場所で個展活動を中心に活動させていただいている。
今の状況になるまでに15年の月日が流れた

  人それぞれ生き方があり、それぞれの作品の売り方があるだろう。
しかし学校の授業の中に陶芸で生活してゆく方法を教える授業が
あってもよさそうだ。

  なぜなら、この教えてくれない事こそ
一番大事で肝心な事なのだから・・・

2000年10月15日

第29話 用途

  陶芸作品には用途がついてまわるパターンが多い。
花器、食器、茶道具、等々。

  その際、使いやすさや目的を重視されるケースが多い。
花器なら花の生けやすさ、食器なら食物をのせた時の事や収納、
口当たり、大きさ、重さ、などなどである。

  確かに自分でも使いやすい食器などは使用頻度が多く
自然に手がのびる。陶芸で作品を作る時は決まってその事を意識はして
作っている。やはり使いやすいのは大事な事だ。

  しかし、本音を言わせていただくと、意識しすぎるのもちょっと・・
という思いだ。

  物事には色々な解釈や理論、考え方があるが、陶芸の場合消去法を
取られるケースが多い。たとえばここに食器があるとしよう。
まず重いのはだめ、重ねられないからだめ、色が派手すぎてだめ、・・・と
どんどん消去してゆくと、しまいには白い無地で軽くて重ねられる食器に
落ち付くような気がしてならない。
それこそ、その手の食器なら100円ショップや業務用食器屋さんで
簡単に手に入れる事ができる。

  それはそれで良いと思う。

  しかし、作家たるものがそれを作る必要があるのか?と考えた場合、
まあ、私個人の考え方としては必要がない!と断言する。

  私は優秀な陶芸家ではない。
よく「お茶碗を作るにはお茶を勉強しなさい。」とか、
「花器を作るならお花を勉強しなさい。」とか
「食器を作るなら料理を勉強しなさい。」とか
「酒器を作るなら酒を飲みなさい。」とか
・・・聞けばもっともらしいけど、よくよく考えると
全然もっともではない。

  もちろん知らないよりは知っている方が良いに決まっているが、
お茶もお花も料理も酒も・・・とそんなに一人の人間が出来るわけ
でもない。売春婦の小説を書くのにいちいち売春婦になっていたり、
政治家の小説を書くのにいちいち選挙に出馬なんてしないだろう。

  どうもこのもっともらしい事をいう人が増えている。
このもっともらしい人に料理を盛らせるとやっぱりもっともらしくて
全然面白くないし、ドハデな器を出そうものなら対処の仕方が
わからないみたいだ。

  昔、私の作ったド派手な器に見事に料理を盛った人がいた。
その人はお茶を習えだのお花を・・などとは口にしない。
肝心なのは最終的にはやはりセンスなのだ。
センスのある人はどんな食器にでもうまく盛るし、どんな花器にでも上
手く生ける。

  用途はその器を使う人が決める事だ。
作家があれやこれや必要以上に用途にこだわり、平均的で模範的で
どこかで見たような没個性的な作品を作る事は私は避けたい。

  ・・・とまたこんな事を書くともっともらしい人から
もっともらしい説教をくらうはめになってしまうのかいな〜!!
やれやれ!

2000年10月25日

第30話 陶芸と音楽

  作陶する時はいつでも音楽を聞きながらやっている。
ロックからポップス、JAZZ、クラシックまで演歌以外は何でも聞く。

  ガンガン仕事をする時、たとえばロクロで数ものを作る時や、
釉掛けをたくさんする時などはロック調のテンポの早い音楽を聞き、
絵付けや細工の細かい仕事の時などは静かめの音楽を聞きながら
作業をしている。

  たまにラジオも聞くけれども、ほとんどFMである。
AMも良いのだが、朝から主婦の夫に対する下ネタや、人生相談などで
離婚や相続の話などが多くて、あまり聞いていて面白くないので
やはりラジオは音楽がよくかかるし音がきれいなFMを聞いている。
またFMはDJの人が外人だったりして、よく英語を駆使して番組を
構成しているので、知らないうちに英会話の勉強にもなる。  

  さて、音楽の話にもどるがやはり音楽はいい。
たくさん音符が連なっている曲もいいが、エリック・サティーみたいな
音の間(空白)をうまく聞かせているのもなかなかである。
いわゆる空白(空間)の美である。 

  どうしても物作りがやってしまう失敗の中に「やりすぎ」というのがある。
私もその一人である。どうしてもやりすぎてしまうのだ。

  私は今、花器に雲の模様を書いた作品を作っているが、
たまに雲を多く書きすぎてしまって、「ちょっと、くどい!」と
言われる事もある。確かに自分でもそう思う時がある。
サティーのような空白の美が自分の作品の中に出てくれば良いのだが
・・・中々にむずかしい。

  かと言って人間、サティーばかりでは面白くないので、ちょっと昔の
ハードロックもよく聞く。「KISS」や「DEEP PURPLE」など
である。(サティーとはえらい違いだ)

  ガンガンとディストーションの効いたギターの音や深胴ドラムからの
ビートが効いたリズムは、とても良くてサティーの空白の美に対して
全く正反対の位置にあるが、こういうスピリットの陶芸作品も
また作ってみたくなる。

  いわゆる、作品全部にこれ見よがしの仕事がしてある作品などである。
こういう仕事は得てして日本人には非常にウケが悪い。
しかし、あまのじゃくな私は嫌われているものもあえてやってみたくなる、
いや嫌われているからこそやりたくなるのである。(相当、変人だ)

  「どうだ!!こんなガンガンにロックしている器!!」
  「お前に使いこなせれるかな?!ベイビー!!」

  案の定、そういうロックな器は個展会場では批判の的になり・・・
まあ、自分としては目的達成!!なのだが、その目的を達成すれば
するほど、売上の目標は達成できない。まさにアホである。

  私は音楽で時には心を躍らせ、時には心静かに作陶している。

  音楽のように、私の作品で人の心が動かせればと願いつつ・・・・

2000年11月6日
Categories
Links
Search this site.
Others
Mobile
qrcode
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM